荘子(上・下)全訳注/ 『老子』その思想を読み尽くす
■ 池田 知久(著) ■ 講談社(2014年) |
■ 池田 知久(著) ■ 講談社(2017年) |
『黄帝内経』(『素問』『霊枢』を併せた便宜的な言い方)は、古代語で書かれています。読めるところはそのまま読み、分からないところを辞書を引けば分かるような書物ではないのです。
同じ単語でも、古代語の意味と現代語の意味が同じとは限りません。この常識が通用しないのが日本、中国の鍼灸界です。
例えば、「精神」です。中国の南京中医学院訳注本の日本語訳『現代語訳 黄帝内経素問(上・中・下)』(東洋学術出版)では、そのまま現代語の「精神(英語に置き換えればマインド)」と解釈されています。
実は、『黄帝内経』の「精神」は、第一に天空に充満する気(生命エネルギー)なのです。この大きく広がる宇宙的概念を、現代人の意識で小さく縮小してしまっているのです。
『黄帝内経』は、戦国〜漢代の古代思想の海から誕生しました。だから、当時の『管子』『呂氏春秋』『淮南子』『春秋繁露』や『老子』『荘子』などと比較対照させて読まなくてはならない。
これら思想書、政治書は、時代を席巻した「黄老思想」と関連しています。「黄老思想」とは、黄帝の思想(=陰陽家の思想)と老荘思想を軸とし、儒家、法家、墨家、兵家など諸子百家を折衷した統合学派のものでした(『黄帝内経』になぜ、「黄帝」の名が付けられているのかの謎も、「黄老思想」から簡単に氷解します)。
『黄帝内経』と『管子』『呂氏春秋』『淮南子』『荘子』を読み比べると、同じく宇宙に満ちる生命エネルギーである「神」と「精」が、戦国中期までに結びつき、「精神」という概念になった過程がよく分かります。
『黄帝内経』の「精神」は、確かにひとの意識を作り出すパワーという性格が強いのですが、現代語の「精神」とするなら明らかに間違いの、生命エネルギーのことです。
しかし、日本語訳『現代語訳 黄帝内経素問(上・中・下)』では、「精神」の一要素である「神」も現代語の「精神」だと理解し、『素問』宝命全形論が鍼灸師にとって最も重要な心得とする「治神(神を治める)」を、「(臨床現場で)精神を集中する」と解釈しています。治療する際に、精神を集中することぐらい、駆け出しの鍼灸学生でもやっています。そのことを古代の鍼灸師が、最も重要な心得だとするわけがありません。「治神」とは、「宇宙の気と一体になって自らの生命エネルギーを養う」ことなのです。ちょっとした解釈のミスが、『黄帝内経』の核心の概念を誤解させてしまうことが分かるでしょう。
とはいえ、わたしたちが、戦国〜漢代の黄老系政治書のすべてに目を通し、『黄帝内経』を読むなど、とても無理です。
けれど、『老子』『荘子』は是非とも読んでください。『老子』『荘子』については、中国にもない優れた導きの書が日本にあります。
池田知久氏の著作です。講談社学術文庫に収められた両書の、目をむくばかりの分厚さに驚いて、手が出ないかもしれませんが、これらは現在望める最高の注釈書です。
分厚くなったのは、過去の日中の著名な注釈にすべて目を通し批評しているからで、原文と解説、現代語訳だけを読むなら、通読にさほど手間は掛かりません。
わたしが、『荘子(上・下)全訳注』を薦めるのは、池田氏の「精神」解釈が極めて的確だからです。池田氏は、「精=神」とし、万物を構成する「気(生命エネルギー)」としています。
「この「精神」は、人間の身体内部にある精神であり精気であると同時に、世界の「万物」の構成や運動を論ずる自然学上の質料因「気」でもある。それ故、人聞が自己の「精神」を養うことに成功するならば、世界をコントロールすることも可能となるとしているからである。これは一種の天人相関説の、原理的なメカニズムの究明なのである」(『荘子(上)全訳注』刻意第十五{総説})
『老子』は、黄帝思想(=陰陽家の思想)とともに「黄老思想」を構成する柱です。『黄帝内経』には、それが黄老系の宇宙論的医書であり、『老子』を踏まえているのだと知っていなければ、トンチンカンな誤解をしてしまう篇がいくつもあります。例えば『素問』四気調神大論です。この篇は今の『素問』の冒頭の第二篇にあり、極めて有名な篇なのですが、歴代注釈家が『老子』を踏まえていることに気づかず、1000年も意味不明とされ、こじつけの解釈が行われてきました。君主が春夏秋冬の気の循環に合わせて心身を養わなければ、国家は亡びてしまうと述べているのに、我々一般人のための四季の養生の指針が語られているとトンデモ解釈が行われてきたのです。
この篇が踏まえている『老子』を読むにも、池田氏の『『老子』その思想を読み尽くす』は最適です。
池田氏は先鋭な学者として、定説に挑戦を続けてきた方です。「無為自然」の新解釈はよく知られ、中国の学界にも影響を与えています。
「無為自然」は、これまで「さかしらなことをせず、あるがままに生きる」というように、智者の理想の生き方とされてきました。しかし、『老子』は、個人の修養書ではなく、君主に最良の統治法を助言する政治書なのです。
池田氏は、「君主が無為だと、人民は君主などいないと思い、みずからそうしている[自分の力で主体的に諸活動を行っている]と思う」と、自由自治アナキズム的な解釈をしています。池田氏は語ります。「(君主に消極的態度を要求し、万人に積極的態度を容認する)この「自然」の政治思想は、中国古代における民主主義の一つのタイプと認めることができるのではなかろうか。あるいはまた無政府主義の一つのタイプと言うべきかもしれない」
この「無為自然」の解釈は、「黄老思想」と大いに関連します。
黄老思想もまた、君主の理想は何もせず、いるのかいないのか分からないように無為にいることで、そうすれば臣下が働いて政治はうまく行くと考えているからです。
池田氏は、『老子』が書物になったのは、戦国時代の末期で、『荘子』より遅れるという、従来の定説を真逆にひっくり返した説の提唱者でもあります。中国では、『老子』を戦国時代初期の古い書物だと考えるのが定説です。この『老子』の思想を引き継いだのが『荘子』とされ、だから老荘思想という言い方なのです。ややこしいのですが、中国古代の思想史にとっては大問題なので、ぜひとも触れさせてください。
わたしも、『老子』『荘子』を読み始めた20代半ばのころは、定説を正しいと思っていました。しかし、読み進めると、どう考えても、『荘子』を『老子』より前の書物だと考えるほうが合理的なのです。『荘子』は文章も素樸で、神話的、説話的なエピソードが整理されない形で挿入されています。よりプリミティブな印象です。『老子』は哲学的、抽象的な概念に彩られ、文体は高度に洗練され、完成された政治哲学書の印象です。
そして、中国の古代思想が、殷代から春秋、戦国と一貫して天に至上の価値を置くのに対して、『老子』は、天よりも「道(タオ)」こそが至高の存在であり、万物の根源だとするのです。この「天からタオへ」の思想転換を図る「革命の書」が早い時代に生まれ、その後に続く天を至高の存在とする諸思想の源流になったというのでは矛盾しています。
それより、天を至上の価値として崇敬する諸子百家の運動が「黄老思想」として統合される戦国中期〜末期に、それ以前の思想史を総括し、価値の軸を「天からタオへ」転換する『老子』が誕生したと考えるほうが素直な理解なのではないでしょうか。
池田氏は専門的な研鑚を通して、わたしが感じてきたこの直感を肯定してくれています。池田氏の『老子』晩成説は、中国でも日本でも、定説をくつがえす影響力はまだないようです。
では、孤立したマイノリティかといえば、そうではありません。戦前の中国思想史の碩学で、1949年の革命後は台湾に亡命した銭穆(せんぼく)氏はすでに、『老子』は『荘子』よりも遅れるという見解でした。フランスの中国学界も、この説に傾いているようです。漢字学の白川静氏も、『荘子』が先、『老子』は後だとしています。池田氏と同じく中国の出土文献を研究する谷中信一氏も、『老子』を晩成と見ています。老荘思想ではなく、荘老思想だった可能性はおおいにあるのです。
『黄帝内経』では、古代の宇宙、生命、身体、医療、政治の概念が熱帯雨林のように複雑に絡み合っています。山田慶児氏がいうように、気の思想が「感応の無限連鎖反応系」であり、宇宙の万物は繋がり感応しているのだから、当然なのです。それなのに、現代の『黄帝内経』解釈は、あまりに合理主義ですっきり直線的過ぎます。
古代の宇宙論や天道思想を除外し、臨床に役立つ技術的な個所だけ手っ取り早くつまみ食いしようとするので、心が少しもときめかない味も素っ気もない解釈になるのです。
池田氏の『荘子』『老子』の注釈書は、中国の戦国〜漢代の生命、人生、死生、政治にかんする思想の精華を解説しています。『黄帝内経』をその本質である宇宙論的な視野で読み解くための手がかりを、たくさん与えてくれます。