タダシい学びのハジメ方(後編)/鍼灸師:矢野 忠・中根 一

ものごとを楽しめる心の状態にすること=癒やし


中根:時間が差し迫ってきているのでしょうか? あ、まだいける? ではまた質問をいたしますね。

ぼくたちの想像を超えてはるかにお忙しくなさっている矢野先生ですが、いつもステキな笑顔でいらっしゃるのが印象的なんです。矢野先生のように明るく無邪気でいるために意識していらっしゃることは何かありますか?

矢野:わたしは、あと数年生きるかどうか…、今もほとんど棺桶に足を突っ込んでいる状態なわけですけれども…(笑)、貝原益軒は「老いに至りて娯(たのしみ)を増す」という言葉を残しています。

みなさんは学校でハンス・セリエのストレス学説を学ばれたかと思います。このストレス学説に最も影響を受けたのが日本と言われております。ストレス学説を日本に紹介したのが杉 靖三郎(すぎ やすさぶろう)先生(1906-2002)で、日本でブームが起こりました。本の名前は忘れましたが、今も記憶に残っている感動的な内容が書いてありました。

日本のストレス研究者がセリエ先生の元を訪れて、「セリエ先生はご自身のストレスをどういうふうにコントロールされているのですか?」と聞いたんですね。そうすると、セリエ先生は「それは日本人のあなた方が、いつも大切にしていることをすればいいんですよ」とおっしゃったとのことでした。しかし、日本の研究者は、セリエ先生が言ったことが何かわからず、「それは何ですか」と尋ねたところ、それは「日本人が大切にしている、感謝することですよ。」と答えられました。

感謝することは、プラスの思考そのものですね。つまり、たとえ悪玉ストレスであったとしても、感謝の気持ちがあると、善玉ストレスに変換され、悪玉ストレスとして感じなくなるのです。それがポジティブ思考であり、ストレス緩和になるということです。

人生でいろんな人と出会いますが、「出会いに感謝する」ことにより、生きていることが楽しく、面白くなる。そういった話なんだと思います。まぁ、わたしはそんなに深く考える能力はありませんが(笑)。もちろん先ほど中根先生がおっしゃったとおり、鍼灸師それぞれの性格の影響もあります。

今の世の中というのは、IT社会や情報社会のなかで、ますますストレスフルな時代になってきました。当然ながら、「心の病」と呼ばれる病態が、すごい勢いで増えてくるものと想定されます。イギリスの疫学者は「次に来る疾病構造の中心は、社会との不適合による病」と予言しています。日本は、予言どおり、その方向に進んでいます。

今の日本はSSRI(抗うつ剤)等の向精神薬で、がんじがらめのようです。心の病とは、臓器の病というよりは、人そのものが病む病気です。こうなりますと、分析的な西洋医学の理論や薬では、そうした病態を捉え、解決することができない。身心全体を捉えることが必要であります。

こういう時代だからこそ、コミュニケーション、とくにノンバーバルコミュニケーションである「触れる力」「手の持つ力」がますますこれから必要になってくるのではと考えています。

カラオケやスポーツなど、人はそれぞれにストレス解消法を持っていますが、やはり根本では、身体の軽さや爽快感を求めるんですね。それらを手軽に求めようと、ドリンクに手を出す。その中に含まれている無水カフェインで一過性の疑似爽快感を体感する、そういうことが今も多く見られます。しかし、無水カフェインは一過性に作用するだけで、根本的には何も解決はしない。

そして、根本的な解決を求めようとしてリラクゼーションの店舗に足を向ける。

我々鍼灸師ができることがあるとすれば、そういったサービス業に比べて、さらなる爽快感や身体の軽さを提供することだと思います。個人的な体験では、効果の面でも、持続性の面においても鍼灸は効果的だと思うのですが。

そして、受療者は身心の爽快感を感じるようになると、それまで気付けなかったものに気付くようになります。たとえば、身心の状態が良いと、普段、いつもの道を歩いているときに気付かなかった、小さな草花が目に入り、美しいと感じたりします。大げさに言えば、自然の移ろいに感動するようになります。そして、生きていることの喜びを実感する。そういった感性が鍼灸によって育つのではないか、とても大事なことではないかと思うんですね。

それは「感動する身体づくり」と言えるでしょう。鍼灸はそういった力を持っているのです。

我々鍼灸師は、「感動する身体づくり」に向けて、日々患者さんに向き合っていくことが非常に大切だと感じております。

広い意味で…「癒やし」というものにつながっていくのかもしれませんね。

中根:矢野先生のお話にあったように、はりきゅうにできることは、かなり多岐にわたっていて、音読みで「治する(ちする)」と「療する(りょうする)」を合わせた「治療」を日々おこなっています。

加えて、訓読みで「治める(おさめる)」と「癒える」を合わせた「治癒」もおこなっているんですよね。

はりきゅうを通して、我々がその2つの価値提案をおこなうことによって、患者さんは感動する身体へと整っていくのでしょうね。

矢野:そうですね…。わたしは「ものごとを楽しめる身心の状態にすること=癒やし」と理解しております。

人間は「ホモ・サピエンス」とか「ホモ・ルーデンス」とか言われておりますが、鍼灸師は「ホモ・ルーデンス」つまり「遊ぶ人」であり、その上で「ホモ・クーランス」つまり「癒やす人」であるとわたしは認識しております。

「癒やし」という漢字は、「愉快」の「愉」からりっしんべんを下に移動させて、やまいだれを付けたものです。この字が表すように心を愉快にすることが癒すという意味になります。さらに鍼灸師は「ホモ・クーランス=癒やす人」として、人を癒し、日々の生活を楽しむことができるように支援することが仕事ではないかと思っています。

”良い手”を作りましょう


中根:その文脈だと、癒やすことがどういうことか、何をすればどれくらい癒やされるのかという研究が必要となってくると思うんです。

あるいは、癒されるという実体験や身体感覚をしっかり身に付けられているかという点も、教育的なところで重要になってくるのではないかと感じるのですが…。

矢野:そうですね…癒やしをどう教育するのかというのは難しいところなんですが…、わたしは学生さんには「”良い手”を作りましょう」というふうにお伝えしています。それは鍼灸学科の学生だけではなく、看護の学生さんにも、院生の学生さんにも言っています。

この手の持つ力というのを、非常に大事にしなくてはならないと思うのです。実際、冷たい湿った手で触られると…不快ですからね。ですから「”良い手”づくり」というところが、鍼灸師には肝心なことではないかと思っています。

以前、卒論のテーマとして、「鍼灸師の手として、どのような手が患者に受け入れられるのか、良い手の条件はいったいなんなのか」といった課題で学生と一緒に研究をしたことがあります。指標は、皮膚温度と手の湿り気(湿度)、および患者の印象評価として調査しました。

その結果、だいたい32-33度の手のひらで、しかもさらっと手で触れられると、人は心地よく感じるいう結論だったんです。

また、最近の研究では、この33度の温度に「TRPV4」と呼ばれる温度受容体が反応します。そうすると肌に潤いをもたらすと同時に、タイトジャンクションの形成を促すことがわかってきたんです。タイトジャンクションとは、表皮細胞の顆粒細胞がお互いにくっついて、ビニールシートのような状態を形成します。そうすると異物の体内侵入を防ぎます。すなわち、身体の防御作用が高まります。

患者さんは、手のひらが33度の鍼灸師と出会うだけで、きっと身心に良い反応が現れます。それが信頼関係につながり、結果的に良い治療に結びついていくと考えられます。

我々鍼灸師にとって、皮膚は診察と治療の場ですから、どうしても患者さんに手で触れます。したがって、鍼灸教育においては、「”良い手”づくり」がポイントですよと強調しています。

中根:”良い手”を作るポイントとは?

矢野:それは…あまり言いたくないというか…爺さんである年齢からいって、少しキザなのですが…やはり「愛」を込めることでしょうか(笑)。

中根:なるほど(笑)!

矢野:「治ってほしいな」とか「よくなってほしいな」とか、そういった気持ちをもって、患者さんに触れることが大事ですかね。

自分の頬に手をかざすと、ほっぺたが温かく感じられますね。左右の手のひらを近づけても温かさを感じられます。手のひらから赤外線の電磁波が出ているんですね。左右の手のひらを近づけて、手のひらで暖かさを感じるよう意識を集中させます。手のひらで暖かさを感じられるようになると、左右の手のひらの距離をひらいていき、温かさを感じるようにトレーニングを毎日続けると、温かい手に変わっていきます。

ぜひ騙されたと思ってやってみてください。冷えた手の人は愛情が深いとも言いますが…、鍼灸師としましては、やはり手は温かいほうがわたしは良いと思います。

中根:確かにそうですね。

矢野:手を…こうしまして(手をこする)…そして、中根先生に触れてみると…

中根:あ、愛を感じます!

矢野:(中根先生から離れる)あ、ふたりはそういう関係ではないんですよ…(照)。ホモ・ルーデンスではありますが…。

中根:(笑)。

ぼくの鍼灸院に弟子入りをしてくれた新人さんは、緊張のあまり手が冷たいんですね。
そのときにぼくは、「意識が自分に向かっている証拠だね」と話しているんです。

「わたしは患者さんに痛みなく鍼ができるだろうか」「わたしは患者さんにどういう評価をされるんだろうか」といったふうに、わたし主体で考えてしまっているとドキドキしてしまう。そういう考え方だと、先述のディストレス、つまり悪玉ストレスがたくさん溜まってしまい、精神性発汗が起こってしまうんですよね。だから、そういうときは「わたし」のことは考えないことが重要だと伝えています。

学校で実技試験を受けるときは緊張するものですが、「わたしが先生を癒やしてあげよう」という心持ちで臨めば、たとえ試験の時間であっても、愛のある温かい手になるんじゃないでしょうか?まぁ、そういう感じで”良い手”を作っていくと、先ほど矢野先生がおっしゃられていたTRPV4が活性化されるのでしょうね。

ちなみに最近の研究では、TRPV4が活性化すると、アルツハイマー病の症状改善にも効果があるという発表がありましてね…。

矢野:えっ! そうなんですか? それはすばらしいですね。

中根:そうなんですよ〜。やはり…愛が溢れる鍼灸師というのは、これからの日本になくてはならない存在ですよね。

矢野:ここにいる皆さんはね、少なくとも医療従事者として、そういった心持ちでいらっしゃるのかなと思っています。わたしの話は、さほど特別なことを言っているわけではないのです。

以前、施術者と患者の関係について、性格の観点から分析し、相性の関係をみてみようとしたんです。性格的に幅の広い施術者であれば、多様な人を受け入れられるだろうし、狭ければ性格的に合う患者のみ受け入れるであろうとの仮説を検証してみようと考えました。それを心理学的な観点から分析しようとしたのですが、施術者から反対をされましてね…(苦笑)。

中根:(苦笑)。

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