いかにして稼ぐか。それは、多くの鍼灸師にとって切実な課題といえるでしょう。
また、特に開業鍼灸師は、自院の施術料をいくらに設定するかという、正解のない決断をする必要があります。
そんななか、東京の谷中で20年以上「鍼灸御処 浩風堂」を開業する舩坂樹観(ふなさか じゅかん)先生は、安価といえる料金を死守し続けています。
原動力は、患者さんに苦労をさせたくないから。「人のためになる」という志を貫く樹観先生に、師匠である横田観風先生との出会い、日本一周や教会に居候したエピソード、そして開業に至るまでのお話を伺いました。
舩坂樹観(ふなさか じゅかん)先生
略歴
舩坂 樹観(本名 秀樹)
1971年 神奈川県生まれ
1990年 湘南医療福祉専門学校 東洋療法本科入学
在学中から横田観風(よこた かんぷう)先生に師事。東西医道交流会・無為塾(後のいやしの道協会)に入門
2002年 台東区谷中に「鍼灸御処 浩風堂」を開院
2004年~いやしの道協会の指導者として後進の育成に携わる
舩坂 樹観(本名 秀樹)
1971年 神奈川県生まれ
1990年 湘南医療福祉専門学校 東洋療法本科入学
在学中から横田観風(よこた かんぷう)先生に師事。東西医道交流会・無為塾(後のいやしの道協会)に入門
2002年 台東区谷中に「鍼灸御処 浩風堂」を開院
2004年~いやしの道協会の指導者として後進の育成に携わる
座禅をしないと、話にならない
今日は樹観先生に鍼灸師の原点みたいなところを聞けたらいいなと思っています。そもそも、先生が鍼灸学校に進もうと思ったのは、どのようなきっかけですか。
ツルタ
樹観先生
高校のときですね。副担任に鍼灸学校に行きたいって言ったら、横田観風先生と知り合いで、じゃあ受かったら「横田観風先生の弟子を紹介してやるから」って。
その頃は、あん摩マッサージ指圧師はもちろん、鍼灸師もかなり人気のあった時代ですよね。すんなり受かったんですか?
ツルタ
樹観先生
受験は高校の制服を着てたんですけど、そうしたら先生に呼び止められて「お前、横高か?」って言われて。その先生が同じ横浜高校の卒業生だったらしくて推してくれたみたい。
学校に通ってみていかがでしたか。
ツルタ
樹観先生
当時は国家試験に移る時だったんですよ。3年間教科書を書き写して終わっちゃった。
いやしの道協会の創始者、横田観風先生のところにはいつから?
ツルタ
樹観先生
18歳のときかな。観風先生が主宰する無為塾っていうところに通うようになりました。当時とにかくすごい厳しくて、座禅しないとダメだって言われて。
鍼を教わるつもりが、まずは座禅をしろみたいな感じ…?
ツルタ
樹観先生
そうそう。座禅をしないと、話にならない。今は無為塾はなくなって「いやしの道協会」という懇切丁寧な会になりました。
当時の無為塾は普通の禅道場よりも厳しくて有名だったんですよ。曹洞宗のお坊さんになった禅の世界で有名な人を輩出したぐらい。僕も「お坊さんになりなさい」って言われましたね。
当時の無為塾は普通の禅道場よりも厳しくて有名だったんですよ。曹洞宗のお坊さんになった禅の世界で有名な人を輩出したぐらい。僕も「お坊さんになりなさい」って言われましたね。
そんな指導まで! そもそも無為塾って、なんだったんでしょうか。
ツルタ
樹観先生
観風先生が主宰されていた東洋医学の勉強会のようなものですね。まず先生の最初のスタンスは禅だったんです。もともと先生は物理学の教授になるはずで、だけど心臓をおかしくしちゃって、検査をしても重度の心臓肥大しかわからなかった。体は冷えるしチアノーゼは起こすし、もうどうしようもないって時にお灸の治療を何年か受けたら、黄色い液体を吐くようになって治っていた。それで呉竹の専門学校の受験に行っちゃったんですよ。
黄色い液体ってなんですか…?
ツルタ
樹観先生
鍼灸の本を一生懸命あさったんだけど答えはなくて、漢方のほうで吉益東洞の「瞑眩」現象にいきついたみたい。これだ!ってことで漢方を勉強した。
瞑眩がポイントなんですね。で、先生も無為塾で禅を勉強させられたと。
ツルタ
樹観先生
アジトみたいなものがあって、そこにいろんな人がたむろしてたんですよ。そっちの方が面白くなっちゃって、お坊さんになる方は辞めちゃったけど。
本気でお坊さんになりたいと思った時期もあったんですか。
ツルタ
樹観先生
あったんだけど、考えが甘かったかもしれない。じつは無為塾でお世話になっていた剣道の先生に「お前お坊さんになるのか?」って聞かれたことがあって。当時はなる気だったので「はい」って答えたんです。
そしたら2時間ぐらい諭されて「坊さんになるっていうのは、お前が地獄に行って、代わりにその人を極楽に行かすことなんだぞ。お前、地獄に行く気あるのか?」「ありません」「じゃあダメだ」って。
そしたら2時間ぐらい諭されて「坊さんになるっていうのは、お前が地獄に行って、代わりにその人を極楽に行かすことなんだぞ。お前、地獄に行く気あるのか?」「ありません」「じゃあダメだ」って。
自分が代わりに地獄に行く覚悟! 日本一周はそれからですか?
ツルタ
樹観先生
そうそう。「歩いて日本一周します」って言ったものの、どうしていいのかわからなくて、資金を貯めるためにまずはバイトしました。たまたま珍しく接骨院の募集が出ていたんですよ。面接に行ったら、まだ免許持っていない人が数十人ずらっと並んでいて、人気絶頂期だったんです。
鍼灸接骨院の景気がとってもよかった時代ですね。
ツルタ
樹観先生
僕はあはき免許あったから即決まって契約社員になった。たまたま院長も従業員もほぼほぼ同年代で気が合って、別れるのは惜しかったけど、そこを辞めて日本一周しに行きました。
歩いて日本一周を目指す
どういうコースで日本一周したんですか。
ツルタ
樹観先生
里心ついて帰っちゃうと嫌だから、まず最初に北海道に行って、本州に渡ってからは日本海側をずっと歩いていったんです。
無為塾のつながりでお世話になった剣道の先生が山形の庄内にいたんですけど、その先生に「お前どうやって歩いてるんだ」って聞かれて「地面歩いてる」って答えたら「バカ者、山を歩け」って。
無為塾のつながりでお世話になった剣道の先生が山形の庄内にいたんですけど、その先生に「お前どうやって歩いてるんだ」って聞かれて「地面歩いてる」って答えたら「バカ者、山を歩け」って。
平地は歩かせてくれない。山登りはなかなか過酷でしょう。
ツルタ
樹観先生
でも、しょうがないから登りましたよ。富山に行ったら立山に登れって言われたんです。それで荷物チェックされて「お前、地図持ってるのか?」「持ってません」「バカ者」「時計は?」「持ってません」「バカ者、持ってなくてどうすんだよ」って。「1番大切なのは今現在どこにいるのかだ」って言われて。
哲学的ですね。宿泊とかはどうしていたんですか。
ツルタ
樹観先生
基本的に野宿。ベンチとか、ショッピングモールの喫煙所とか。途中でお金がなくなって山小屋でバイトもしました。3カ月働いてお金を貯めてまた半分歩いてって続けて、それから北海道の教会に居候もして。
ちなみに教会では何をされていたんですか。
ツルタ
樹観先生
神父さんの手伝いをしてました。もともと小さい頃から教会には出入りしてたんです。それで、ある日いつのまにか、僕の洗礼の準備がされていて「まあ、いいか」と思って。
お坊さんじゃなくて洗礼を受けたんですか? きっと教会でも色んな体験をされていますね。
ツルタ
樹観先生
そうそう。ひとつエピソードを挙げると、出産を機に統合失調症を発症しちゃったお母さんが教会に来ていたんですよ。その日も「私、幻覚見ました。あの公園で、こういう光を見た」って言うわけ。そしたら神父さんが「じゃあその公園に行きましょう」って、実際に行って「ここで青い光を見て」とかちゃんと聞いているんですよ。
僕が「なんでこんなのやっているのかな」と思ったのを神父さんが悟って「無駄だと思うでしょう?」って言われたの。「この女の人に救ってほしいっていう真実があるんだよ。私はそれに誠心誠意応えなきゃいけない。何もできないけど、やれることは誠実にやらなきゃいけない」って言われて。そういうのは技術云々じゃないんだなっていうのを、すごく学びました。
僕が「なんでこんなのやっているのかな」と思ったのを神父さんが悟って「無駄だと思うでしょう?」って言われたの。「この女の人に救ってほしいっていう真実があるんだよ。私はそれに誠心誠意応えなきゃいけない。何もできないけど、やれることは誠実にやらなきゃいけない」って言われて。そういうのは技術云々じゃないんだなっていうのを、すごく学びました。
教会から関東に戻ってきたのは何歳ぐらいの時ですか。
ツルタ
樹観先生
27歳くらいかな。
結構何年も放浪というか、いろんなことをしていたってことですね。
ツルタ
樹観先生
うんうん。日本一周し始めて、山小屋のバイトとか教会の手伝いをしているうちに27、8歳になっちゃって。観風先生もいい加減、早く鍼灸をやれと。それで急いで帰って来たの。
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