「タダシい学びのハジメ方」の前編はコチラ
悩ましさのベースは、東洋医学概論。そして、その中核が「氣」
中根:身内に鍼灸師がいれば、鍼灸という仕事がどのようなものなのかをイメージして入学してくることができますが、実際には高校の進路指導の先生からの紹介であったり、自分がスポーツをしていて鍼灸治療で救われたという経緯で入学するケースが多いようです。
そのため、現代西洋的医学的な医療ができると思って入学したのに、実際にはホリスティック(=包括的)な要素が多分にあったりするので、「治す」ということがどういうことなのか、解らなくなってしまうようです。
この点は非常に悩ましいなと思うんですが、矢野先生はどのようにお考えですか?
矢野:そうですね…。その悩ましさのベースが、東洋医学概論にあるのではないか、そして、その中核が、「氣」という概念ではないかと思われます。「氣」を科学的な思考で説明できるかというと、簡単ではないのですね。
たとえば「”蛍光灯が点いている”という現象は”電気が流れているから起こる”」ということは、誰もが知っていますよね。スイッチを切れば、蛍光灯も消える。電気により蛍光灯は点いたり、消えたりしますが、じゃあ果たして「電気は見えるのか?」ということです。つまり、電気の実体は見えないけれど、働きは見える、ということです。
東洋医学で言う「氣」とは、そういうものじゃないのかな、と思うのです。
つまり自然界の事象を、一元的に抽象度の高い概念で説明しようとしたのが「氣の概念」だと思います。このような抽象度の高い概念は、科学用語で説明するよりも、身近なものを例にあげて、「氣」や「陰陽」についてわかりやすく、日常の事柄でもって説明すれば、より理解されるのではないでしょうか。
西洋では、見えない実体を計測し、客観化します。それは分析的手法により、要素を取り出して検証としようとするのですが、自然のあるがままをそのままに捉える手法はまだ確立されていません。人が呼吸し、考え、食べ、すなわち生きている状態を一元的に説明できる手法はないということです。それを東洋では「氣」の概念で説明しようとしました。あるがままを包括的に捉えようとするところに、東洋のすごみがあると思っています。
とかく東洋医学と西洋医学、東洋の科学と西洋の科学、といったように二項対立的に捉えようとしていますが、両者の科学的思考は補完的であり、相補的であるという視点があるのではないかと思います。更に言えば現代科学を発展、転換させる視点が東洋の科学的思考にあるのではないか、そのように思っています。
中根:科学で説明できないものを否定するのではなく、見えないものを知ろうとする姿勢が、東洋医学を学ぶ上で大切であると。
矢野:たとえば、中根先生はとてもステキな、ハンサムで陽気な方であります。ここにすべての東洋医学の氣や陰陽論が語られていると思うのです。
中根:いえいえ(照れる)。
矢野:陽気ですてきなハンサムな中年男(?)、中根 一先生という捉え方は、まさに氣と陰陽の理論による捉え方に通じます。この捉え方は、相対的であり、絶対的ではありません。中根先生も、時には陰気になることもあるでしょう。中根先生と周囲との関わり方、その関係で生じる変化、それらは極めて日常的です。具体的であり、具象的です。けっして抽象的なものではありません。
しかし、ひとつひとつの事象を書きとどめ、表現することは困難でもあります。その複雑極まりない日常を、体系的に、また一元的に捉えようとしたのが「氣」の概念であり、陰陽論であると私は理解しています。したがって、氣や陰陽論をそのままの用語で説明しようとしても抽象度が高いために上手くいきません。なかなか難しいのです。それを日常的な事象を用いて説明すると、非常にわかりやすいものになるのではないか、そのように思っています。
東洋医学的な考え方をどのようにうまく伝えられるようになるか、そのあたりは教科書や教育技法の改訂が必要なのではないかと常日頃、思っております。
陰陽論で森羅万象が説明できると言われてもピンとこないですよね。昔の人は、変転極まりない森羅万象を観察し、ひとつひとつの違いを説明しようと試みましたが、これらをすべて書き出すと枚挙的になり、とても書き出せず、整理がつかなくなります。しかし、体系的に世界を把握することを諦めたわけではありませんでした。
では、どうしたかといえば、分類原理を導入することを考えました。その手法が陰陽論です。陰と陽の組合せで、複雑極まりない森羅万象を表現できることを発見したのです。その象徴が八卦です。
この陰(0)と陽(1)の組み合わせによる表現手法は、まさに二進法です。コンピュータの理論として発展していきます。さまざまな事象が8ビット、16ビット、32ビット、64ビットで表現される、つまりすべての事象は0と1、つまり陰と陽の組み合わせで説明できるとしたのです。そのことは、八卦の世界観です。
我々が学ぶ東洋医学概論の陰陽論は、けっして古色蒼然たるものではなく、今も最先端でいきいきと生きているのです。こうした優れた科学的思考は、すべて観察から導き出されたものです。時々刻々と変化する複雑なものを分解せず、そのままを理解し、捉えようと観察することを通して導き出されたものと思います。生きている状態は、けっして要素的に分けられない。したがって、そうした現象の背後にあるメカニズムを解明しようとする分析的な科学思考は発達しませんでした。
皆さんも、日々、生きている自分をイメージしてください。自分自身を時間の流れから切り取って、要素分析的に捉えられますか。身心一体となった自分が、この場にいて、わたしたちふたりのトークを聴いている。その過程で生起する、さまざまな身心の反応等を切り取って、自分を実感できますか。
先端的な技術の発想の芽が、東洋医学のなかにある
矢野:また、我々鍼灸師は、舌診や脈診で全身の機能を捉えて判断していますが、単なる舌であり、橈骨動脈の拍動じゃないの? といつもいじめられるのだけど…。そして、そんなことをしているから鍼灸は…と揶揄され、時には否定されます。
中根:あはは(笑)。
矢野:この「手首の脈という局所に全身の状態が現れている」という発想が、非常に東洋医学的ですね。これは舌診でも、耳診でも同じで、身体の一部分に全身が投影されていると捉えるわけですが、この発想がホログラフィーであります。
ホログラフィーとは、局所に全体の情報が圧縮されているとする考え方です。脈診にしろ、舌診にしろ、腹診にしろ、東洋医学の診察法は一種のホログラムとして人体を捉えています。このように先端的な技術の発想の芽が、日頃、我々が習っている東洋医学のなかにあるということに驚かされます。
私はそれを森 和先生の喫茶店講義で気付かされて、この鍼灸の世界というのはすごいな、少し真面目に勉強しようかなと考えるようになったんですね。
(※ 前編参照)
中根:矢野先生が考えられている鍼灸師像というのは、ある1点に立って定点観測するという態度で物事を追求するのではなく、いろんな角度で事象を捉え、ざっくりと考えるほうが、鍼灸師らしいという感じなのでしょうか?
矢野:そのとおりです。多次元的な観察所見を通して、問題の本質を探ろうとするのが四診法です。そこには主観的情報と一部の客観的情報があります。
我々鍼灸師は血液検査やいろいろな画像診断ができないですからね。体表に映し出されるさまざまな所見を通して、病態を把握しようとするところが、鍼灸師の真価と思っています。鍼灸の場合、体表を高感度のモニターとして捉えますね。つまり現代医学では無視してきた体表所見にも意義があるという観点で、鍼灸の診察は成り立っています。
ですから、鍼灸師は、体表に映し出された多様な所見を見つめ、その人を理解しようとする。その根底には、身心一如という身体観があり、その身体観に立って診察をおこなっている。それが鍼灸診察の基本であり、特色といえます。もちろん、現代医学的な病態把握を否定するものではありません。日本の伝統論は、「伝統は進化する」という視点から、有益なものを積極的に取り込むことを良しとしています。鍼灸医療の発展過程をみると、そのような道を歩んでいるのです。
古典にとどまることなく、古典の世界をどのように読み解くのか、さまざまな視点で読み解くことが必要ではないかと思っています。古典は玉石混交の世界です。陰陽論が二進法に通じたり、局所で全身を診る視点がホログラフイーに通じることを挙げましたが、イノベーションを引き起こす「玉」を多く内包しているのが古典だと思います。
残念ながら、そうした視点は他分野で盛んです。鍼灸の世界は、ある意味、古典的理論による呪縛状態にあるように思えます。古典派と現代派の対立状態が生じる背景には、そのような、かたくなな視点が底流を成しているのではないでしょうか。
1枚のカードよりは、複数のカードを持っている方がいい
矢野:少し臨床の話に戻りましょうか。鍼灸臨床においては、患者(受療者)にどれだけ寄り添えられるのか…。そのことを別の言葉で表現すると、どれだけ優しさ、親切さを持って、患者と向き合うことができるのか。まぁ、そういったところが鍼灸師としての核になるのではないかと思っております。
その上で、ひとつの理論だけで診察や治療をおこなう、というのではなく、多面的な発想を持って診察や治療をしていただく。すなわち、状況に合った適切な方法で、患者さんに対応することがよいのではないかと思います。
皆さん、考えてみてください。なぜ、地球上に、こんなにさまざまな医療や治療法があるのか。
医療社会学的な視点からいうと、現在の我が国は多元的な医療システムでありますが、これまでは一元的医療システムが支配的でした。つまり現代西洋医学、1本のみで成り立っている医療システムだったんですね。
現在の健康保険制度は、現代西洋医学の医療機関しか使えないことになっているんです。すなわち、健康保険制度は、一元的医療システムの中でしか、機能できないということです。しかし、実際は、多元的な医療システムの状況にあります。
なぜかといえば、「一元的な医療システムでは解決できない」という現実があるからなんですね。現代西洋医学的な治療方法が合う人もいれば、合わない人もいる。合わない人は補完代替医療、これまで周辺の医療と言われていた医療を利用しています。
そういった現実を理解したうえで、中根先生がおっしゃったように、我々鍼灸師は、業務範囲の中で、一元的な鍼灸臨床だけにとどまらず、多元的な視点をもって、目の前の患者さんの問題を解決しようとする姿勢をもつことが大切だと考えます。具体的には、ある療法だけで診療するといった1枚のカードよりは、複数のカードを持っている方がいい。経絡治療、中医鍼灸、経筋療法、現代鍼灸など、自分が最も主とする療法を核として、他の療法の診療もできるように修得することが大切であると考えています。
わたし個人としては、そのカードの大元は、大部分『黄帝内経』の中に内包されているのではないかと思っております。
中根:すべての東洋的療法のテキストになっている、古典医書ですね。
矢野:皆さま方は、学生時代に五刺、九刺、十二刺という古刺について習いましたよね。あのなかで、筋痹の症状を取る刺法に、十二刺の恢刺(かいし)や、五刺の関刺という手法があることを学びましたね。それらの刺法は、経絡も経穴も関係ない。関節周囲の筋腱の傍らの反応点に刺鍼することで筋痹の症状を軽減させることができるという。現代医学的に解釈すると「Ib抑制によって筋の過緊張を緩め、筋肉痛を軽減すると共に関節を動かしやすくする」と説明ができます。
このように『黄帝内経』の中身はけっこう自由なのです。臓腑-経絡経穴系だけで完結しているわけではない。そこには現代医学的視点に通じる視点がある。
現代では、現代西洋医学の知識をもって、目的とした部位に刺鍼し、病態を改善させますが、その視点はすでに古典の世界にも見られるということです。絞扼神経障害の場合、エントラップメントを起こしている筋肉を緩めれば症状は改善する。そういったことはすでに知られていた、ということです。何がなんでも経絡経穴で、ということではけっしてないということです。
しかし、現状では、ひとつの理論で鍼灸を語ろうとし、それぞれの派を創っていく。他者を受け入れようとはしない。最近の鍼灸業界に対し、そんな印象を抱いています。しかし、わたしは、そんなふうに取り組むよりも、カードを増やしていくようにすれば、いろいろな患者さんに対応できるようになるのではないか、と思っています。現代医学的な治療あり、トリガーポイント的な治療あり、経絡治療あり、弁証論治あり、です。色々試しながら、その患者に適した治療をおこなう。そのためには生涯勉強ということになりますが、そういう視点で臨床家の道を歩んでいただければと思い、日頃、学生にも話しかけています。
日本の鍼灸教育は、ユニバーサル的
中根:ぼくは古典的な鍼灸術をおこなう学会に所属していますが、ありがたいことに、学生時代に解剖学や生理学を教えていただいているので、古典に書かれていることを多元的に捉える習慣が身についているように思います。
矢野:そういう意味では、日本の鍼灸教育は、世界に通用する、ユニバーサル的なところがあるんではないかと考えております。
世界の鍼灸界を眺めてみると中医鍼灸が多いですね。中医学を否定するわけではないのですが「もう少しこうしたほうがいいのにな」と感じるところが多いのです。その点、日本は、長い鍼あり、細い鍼あり、擦過する鍼があり、と道具が豊富です。道具が豊富なところが、日本鍼灸の特徴であるとも言えます。
料理人や大工さんもそうですが、ものすごくたくさんの道具を持っている。注目すべきは、なぜ、それほどまでに道具の種類を必要とするのか、という点です。そこには、目的とする料理や物を造るために最適な道具が必要であり、それを完成させるために道具までも造る。よい道具を用いて、よい仕事をする日本人の姿勢が、そこにはみられるんですね。
このことと同様に、日本鍼灸は診察や治療において、いろいろな視点や手段を持っており、さまざまな問題の解決に当たります。日本の鍼灸師の原風景は、そのような風景ではないかと思うのです。「現代派だ!」「古典派だ!」と今も線引しているようですが、東や西、現代や古典にあまりこだわる必要はないのではないかな、と思っております。大切なのは、「鍼灸医療は誰のためにあるのか? それは、人のためにある」という単純明快な立場で臨床に専念し、勉強に精進することではないかと思います。
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