学校法人呉竹学園は2026(令和8)年で創立100周年を迎えます。
その始まりは、大正から昭和へと移る年、四谷にある寺の境内で夜間のみ灸を教えたことにあります。
呉竹学園では、どのような教育理念を持ち、鍼灸師の育成にあたって、どんな取り組みをおこなってきたのか。
理事長の坂本歩先生に振り返ってもらいながら、現在の鍼灸業界の課題についても聞いてきました。
坂本 歩(さかもと あゆみ)先生

略歴
昭和37年1月25日生まれ 東京都出身昭和63年東京医科大学卒業
昭和63‐平成2年 東京医科大学八王子医療センター 循環器内科研修
平成4年 東京医科大学大学院博士課程修了
平成4年 東京医科大学助手
平成4‐8年 東京都健康推進財団医学指導主査
平成8年 東京医科大学講師
平成11年 呉竹学園理事長東洋療法学校協会会長、全国柔道整復学校協会会長を歴任
現在、東洋療法研修試験財団常務理事、全国専修学校各種学校総連合会監事、
東京都専修学校各種学校協会副会長、全日本鍼灸学会監事、東京都結核予防会評議員などを兼務
昭和37年1月25日生まれ 東京都出身昭和63年東京医科大学卒業
昭和63‐平成2年 東京医科大学八王子医療センター 循環器内科研修
平成4年 東京医科大学大学院博士課程修了
平成4年 東京医科大学助手
平成4‐8年 東京都健康推進財団医学指導主査
平成8年 東京医科大学講師
平成11年 呉竹学園理事長東洋療法学校協会会長、全国柔道整復学校協会会長を歴任
現在、東洋療法研修試験財団常務理事、全国専修学校各種学校総連合会監事、
東京都専修学校各種学校協会副会長、全日本鍼灸学会監事、東京都結核予防会評議員などを兼務
寺の境内を借りて温灸を指導した祖父がルーツ

坂本先生は、東京呉竹医療専門学校がある四谷がご出身地なのですね。
タキザワ
坂本先生
そうですね。ルーツについて少し話すと、祖父(坂本貢)が山梨の農家に生まれて、十代半ばに親戚の医師の家で書生として働きながら、漢学専門塾師範科を卒業しました。医師を目指して故郷から上京したのですが、体調を崩してしまって郷里に舞い戻ったんですね。闘病期間中に鍼灸を受けたことが、祖父の人生を方向づけたようです。
鍼灸で快復されて、再び上京したのですか。
タキザワ
坂本先生
そうです。ただ、今度は医師になるため、ではなく、鍼灸を勉強するために、です。西洋医学の限界を痛感したと聞いています。上京してからは、昼に働いて夜は勉強という日々を送ったそうです。一般の人に浸透させやすい温灸を近所の人に教えるようになったのが、祖父の教育者としての出発点となりました。
それが四谷での学校開校につながるのですね。
タキザワ
坂本先生
最初は四谷にある通称「笹寺」というお寺の境内を借りて、夜間のみ温灸の授業を開講したそうです。寺子屋ですね。1926(大正15)年に東洋温灸医学院としてスタートしたのが、東京医療専門学校の前身ということになります。
「近所の人に温灸を教えよう」から今の呉竹学園が生まれたと思うと、すごいことですよね…。創立当初、学生はすぐに集ったのでしょうか。
タキザワ
坂本先生
東洋温灸医学院の経営は、最初から順調に軌道に乗ったようです。ちょうど大正から昭和に移り、金融恐慌などで人々が世の中に不安を抱えていた時期でしたからね。資格を取得しようとする人が急増したことが、追い風になったようです。ただ、学校をやっていくうちに、鍼灸の教育がほとんど整備されていないということを、祖父は痛感したそうです。
将来が定まっておらず大学を受け直す
そうした祖父の坂本貢先生のご活動をみながら、先生のお父さま自身も医療者であり、教育者としての道を歩まれたんですね。
タキザワ
坂本先生
そうですね。医師の父(坂本浩二)は昭和大学医学部の教授として教鞭を執りながら、祖父が設立した学校にも携わっていくことになりました。
では、先生もそうした道に進むことに迷いはなかったのでしょうか。
タキザワ
坂本先生
いえ、高校3年生の段階では、自分がどういう方向に進むのか、まるでわかりませんでした。親から「医者になれ」と言われたこともなかったですし。数学が好きだったので、大学では理工学部を受験しました。
医学部を受けなかったんですね。
タキザワ
坂本先生
理工学部に合格したときに、親父に「そこに行ってどうするんだ」って言われたんです。そのときに初めて父と進路についてじっくり話して「自分も医者を目指してみようかな」と思うようになりました。
そこから受験し直して、東京医科大学の医学部に進学されたわけですね。大学在学中は鍼灸とのかかわりはありましたか。
タキザワ
坂本先生
ほぼゼロですね。鍼灸治療は子どもの頃に受けたことがあり、身近ではありましたが、自分が勉強しようとは思いませんでした。
漢方はいかがでしょうか。
タキザワ
坂本先生
たまたま漢方で有名な矢数道明先生の講義を受ける機会があったのですが、さっぱり意味がわかりませんでした。「君も漢方を勉強したほうがいいよ」と言ってもらったりもしたのですが「絶対やらないな」と思いました。
大学卒業後の進路について教えてください。
タキザワ
坂本先生
循環器内科を専門とする医師のもとで、研修することになりました。その医師が私の師匠ということになります。もともと父の知り合いで、紹介されたときに「僕は弟子を取るつもりはない。同志を求めている」と言われて心が動かされました。しかし、現実は甘くなく、最初の2年間は馬車馬のように働くことになりました。
研修医の期間はすごく忙しいんですよね。
タキザワ
坂本先生
特に循環器は患者が生きるか死ぬかの毎日なので、ほぼ病院にいなくてはならず、家に帰れないんですよね。全く寝られなくても、翌日も通常通りに働くのが当たり前でした。臨床の研修をやりながらも、師匠のカバン持ちもやっていたので、多忙でしたね。ようやく夏休みを1週間もらったときも、初日に「来てくれ」と電話がかかってきたのを、今でもよく覚えています。
今の「働き方改革」とは程遠い世界ですね…。
タキザワ
経穴部位の国際標準化で鍼灸業界に触れる
先生が鍼灸に携わるきっかけは何だったのでしょうか。
タキザワ
坂本先生
父の学生時代からの友人である中嶋宏先生が、WHO西太平洋地域事務局長になったのがきっかけです。経穴の国際標準を作るという話が持ち上がって、私も興味を持ちました。
その背景について、詳しく教えてもらえますか。
タキザワ
坂本先生
さかのぼると、第1回国際鍼灸世界学会が1965(昭和40)年10月に東京で開催されることになり、それに先立って同年4月に日本経穴委員会が設立されました。国際会議に合わせて、日本案の『経絡経穴名の統一』を発刊しています。
そんなに昔からやられていたのですね。
タキザワ
坂本先生
その後は国際鍼灸世界学会がおこなわれても、国際経絡経穴委員会は開催されなかったりする時期が続くのですが、1981(昭和56)年にWHOの要請を受けて経絡・経穴に関する国際的統一について、父が世話人となり、中嶋宏先生と日本経穴委員会、そして同専門委員会数名と第1回の会合が開かれることになったわけです。
棚上げされていた経穴の国際標準化が動き出したわけですね。経穴部位の標準化といえば、2005(平成17)年1月10日に朝日新聞が報じて話題になりましたよね。
タキザワ
坂本先生
朝日の一面で、経穴部位の国際標準化の動きと、日中韓で位置がズレていた経穴が92穴あったことが報じられました。インパクトが大きかったですよね。「治療効果のない経穴がこれまで使われていたのではないか」という不安を抱かせる書き方でしたが、一般の読者はツボがWHOでも認められているという点に驚いたようです。
世論は記者の思惑とは違う方向にいったんですね。
タキザワ
坂本先生
ちょうど報道よりも数年前に、第二次日本経穴委員会が経穴部位国際標準化に向けての日本案作りが開始したところでした。業界内でも、経穴の位置への議論を深めるよいきっかけになったかなと思います。
循環器内科には、どれくらいお勤めになられていたんですか。
タキザワ
坂本先生
臨床を本格的にやっていたのは5年ぐらいで、あとは臨床をやりながら、師匠の仕事を手伝うことがしばらく続きました。合わせて11年くらい、そんな生活を送りました。
呉竹学園とはどのようなかかわりを持っていましたか。
タキザワ
坂本先生
臨床していた頃は、常任理事としてかかわっていました。理事長になって本格的に学校経営に携わったのは1999(平成11)年からです。当時は東京校と熱海校があり、その後しばらくして横浜校が開校することとなります。
医師の世界から鍼灸の世界へと移られて、なにかギャップはありましたか。
タキザワ
坂本先生
とにかく激務の医師の下についていたので、それに比べると、時間がゆっくり流れているなと思いました。あと、やっぱり鍼灸師の先生は個性的なタイプが多いですよね。ただ、父が教員たちに研究を指導していたことで、互いにシンパシーを感じるところがありました。組織だった動きがしやすい環境にはあったと思います。
教育機関の体系づくりに尽力した祖父
祖父の代で創設された学校を背負いながら、鍼灸業界の教育を牽引していく責任感のようなものは、やはり大きかったですか。
タキザワ
坂本先生
当時はそこまで感じていなかったのですが、今年が100周年なので昔の資料をいろいろとみているうちに、創立者が抱いた理念の大切さを実感することができました。
創立者はどんな思いで学校を始めたのでしょうか。
タキザワ
坂本先生
もともと鍼灸の世界って徒弟制度ですよね。しかし、そんなことをいつまでも続けていては、鍼灸師は途絶えてしまう。教育機関の体系づくりが必要だと実感したときから、祖父の奮闘が始まりました。
資格制度が今とは全く違いましたものね。
タキザワ
坂本先生
当時、鍼灸師の資格を取るためには、鍼灸師の修行証明を持って、各府県の警察の試験を受けなければなりませんでした。これが非常に難しくて、1回の試験で2~3人しか合格しませんでした。これではダメだと祖父は考えて、私立学校として認可されるように、教師陣を充実させ、東京府や警視庁の折衝など体制づくりに奔走したようです。同時に、すべての教科の教科書を自分で書いたのです。
全教科をおひとりで! すさまじいですね…。
タキザワ
坂本先生
解剖、生理、経穴、鍼、灸まですべて書いたわけですから。このバイタリティーには敵いません。この教科書が自校だけではなく、全国の鍼灸試験の受験生にも用いられました。そして設立から6年目の1931(昭和6)年に、私立学校として認可を受けることができました。そのうえ、鍼灸マッサージの普及活動までおこなっているんですよ。
どんな活動だったのでしょうか。
タキザワ
坂本先生
全国の女学校を行脚して、鍼灸マッサージの実演を行ったんです。そんな努力が認められて、1939(昭和14)年には無試験開業としての指定校としての認可も受けられました。このときに総生徒数は3000人にも及びました。そこから第二次世界大戦がはじまり、すべてゼロになってしまうのですが…。
なぜそれでもやれたと思いますか。
タキザワ
坂本先生
明治維新以降、鍼灸がどんどん片隅に追いやられている状況を、何とかして見直したい、という情熱に燃えていたのでしょう。自身の体験として「鍼灸は効く」という思いが、鍼灸復興の原動力になったんだと思います。
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