日本では鍼灸の価値が、軽んじられている気がしてなりません/鍼灸師:芦野 純夫

国立身体障害者リハビリテーションセンターで約30年間にわたり、厚生労働教官として視覚障害者の教育に携わってきたのが、芦野純夫(あしの すみお)先生です。
あはきに関する法律の有識者として知られている芦野先生ですが、なぜ鍼灸師になり、どんな理由で視覚障害者の教育に携わるようになったのかは、あまり知られていません。

実は、芦野先生にも「自分は視覚障害者の教育に向いていないんじゃないか」と悩んだ日々があったそうです。
しかし、あることをきっかけに、自分の居場所の価値がわかったといいます。近代鍼灸史の証言者でもある芦野先生へのインタビューをお楽しみください。

芦野純夫(あしの すみお)先生

1947年東京生まれ
高校卒業後1977年までウィーン留学、国立音楽演技芸術大学オーボエ科、ウィーン大学医学部研究生を経て、ボルツマン鍼研究所にて臨床研修、その間1976年東京高等鍼灸学校卒
1979年 筑波大学理療科教員養成施設臨床専攻課程修了、筑波大学にてドイツ語講師
1980年 厚生省採用(厚生教官)、国立身体障害者リハビリテーションセンター理療教育部教官、東洋療法研修試験財団国家試験評価委員、筑波技術大学非常勤講師を歴任、現在は横浜医療専門学校学術顧問

「鍼麻酔ブーム」がきっかけだった

鍼灸の道に進むことになったきっかけについて教えてください。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
私は高校を卒業してから、30歳までウィーンで勉強していました。
初めは国立の音楽演技芸術大学で、ウィンナオーボエをやっていたんですね。ちょうど私が音楽大学に在学していたときの1971年、鍼麻酔報道があったんですよ。24歳のときのことです。
あの鍼麻酔ですか! 世界的に鍼を有名にした…。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
はい、世界で鍼ブームを巻き起こした鍼麻酔です。
鍼麻酔報道のきっかけは「ニューヨークタイムズ」のレストン記者が、中国で虫垂炎になってしまい、現地で手術を受けたことにあります。そのときに初めて欧米の人が中国の医療を知ったわけです。
記事ではどのように伝えられていたのでしょうか。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
「2000年前の漢方・鍼灸という古代医学が、現在も国民の医療として行われている」というようなことが書いてあったはずです。
鍼施術のなかでも、特に欧米の医学者に衝撃を与えたのが、鍼麻酔だったのです。翌年には訪中したニクソン大統領の随行医師団に向けて、鍼麻酔が公開されることになります。
ニクソン訪中で鍼への注目がより一層高まったわけですね。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
ちょうど同じ頃に、ウィーンでヨーロッパ初の鍼麻酔手術が公開でおこなわれました。ウィーン大学病院の耳鼻咽喉科で甲状腺の手術だったと思います。鍼麻酔を行ったのは、ヨハネス・ビシュコという、ヨーロッパの鍼の草分けのようなお医者さんです。
戦後から変わり者扱いされながら鍼をやっていたのですが、鍼麻酔手術がオーストリアに中継されると、翌日の新聞から大騒ぎになりました。
ウィーンでも鍼が話題になったんですか。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
私なんて中国人と間違えられて、電車で向かいに座った人から「鍼麻酔、すごいね。現代医学で治らないのは、鍼を受けるとみんな治っちゃうらしい」と言われましたから。
過剰な期待をするくらい盛り上がっていたんですね。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
そんな状況でしたから、私も次第に鍼に関心を持つようになりました。また偶然にも、私が音楽大学で師事していたハンス・ハダモフスキーという教授が、前からビシュコ医師に鍼治療を受けていたんですよ。
先生は、ウィーンの地で鍼と出会ったんですね。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
そういうことになります。ヨーロッパで音楽を勉強していながらも「もっと日本人のアイデンティティを感じられるものを身につけたい」という思いがどこかでありました。そんな矢先に、ちょうど鍼と巡り合ったということですね。

ウィーンの鍼研究所で研修を受ける

どのように鍼灸師になったんですか。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
いったん帰国して、四谷の東京高等鍼灸学校(現 東京医療専門学校)に入りました。
同時に慶應義塾大学と慶應外語の上級に編入させてもらい、ドイツ語の勉強もしました。ドイツ語は高校生の頃からずいぶん長くやっていたので、新聞を読んだり、ラジオを聴いたりする程度ならなんとかなっていたのですが、学術誌や文学を理解できるほどのドイツ語力はなかったんです。
どうしてドイツ語の再勉強もされたんですか。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
私としては、またウィーンに戻るつもりでした。だから、向こうの下宿に荷物を全部置きっぱなしで帰ってきたんですよ。日本での勉強のおかげでオーストリアに戻ってからは、ドイツ語に不自由しなくなりました。
ウィーンに戻ってからは鍼をやられていたのでしょうか。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
まずはウィーン大学で医学部の研究生にしてもらいました。というのも、1972年に公開鍼麻酔手術をやったビシュコ医師が、ウィーン市立ポリクリニークの中に「ルードヴィヒ・ボルツマン鍼研究所」が置かれ、所長になったんです。
私もその研究所で研修をさせてもらいながら、大学で好きな授業を受けていました。


▲ウィーン市立ポリクリニーク


▲『Johannes Bischko – ein Leben fuer die Akupunktur』(著:Manfred Richart)

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