日本では鍼灸の価値が、軽んじられている気がしてなりません/鍼灸師:芦野 純夫

めぐり合わせで厚生教官の道へ

「ずっとオーストリアで鍼灸をやっていきたい」と考えたことはありますか。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
できればそうしたかったですね。
ただ、ちょうど1年経った1977年の秋に、東京で第5回国際鍼灸学会が開かれます。ビシュコはその国際鍼灸学会で副会長として講演を行う予定でした。
ところが、いろいろ事情があって行けなくなってしまった。そこでボルツマン鍼研究所で私と一緒に研修を受けていたペーター・ベルトホルトというドイツ人の医師が、ビシュコの原稿を代読することになったんです。
なるほど。先生がサポートで、一緒に日本に行かなければならなくなったんですか。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
ええ、はからずも一緒に日本に戻ることになりました。
ペーターが「せっかく日本に行くならば、日本の鍼灸を勉強したい」というものですから、西條一止先生にお願いしてみました。すると、当時の東京教育大学(現 筑波大学)にあった芹澤研究室に私もペーターも預かってもらうことになり、鍼の研修を受けることができました。
芹澤勝助先生の研究室にいらっしゃったんですね。驚きです。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
ちょうど芹澤教授が定年退官される2年前のことです。結局、ペーターは3カ月ぐらい滞在して、ドイツに帰りました。
私はといえば、当時の助教授だった森和先生から「一緒に鍼の研究をやっていかないか」と誘われたので、翌年4月に筑波大学理療科教員養成施設の臨床専攻課程に入学しました。ちょうど東京教育大学から筑波大学に切り替わったタイミングですね。森先生とはいろんな研究をしてきました。
森和先生との出会いも先生の人生に、大きな影響を与えたんですね。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
それから芹澤先生が退官されて、森先生が次の施設長になると思ったら、驚いたことに飛び越えて西條先生がなってしまって。結局、明治鍼灸短大(現 明治国際医療大学)が4年制になったので、森先生は明治の教授になります。
芦野先生の歩みを知ると、近代日本の鍼灸史がよくわかります。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
筑波大学理療科教員養成施設を修了してからは非常勤講師で1年残りましたが、その年の7月に国立身体障害者リハビリテーションセンターが発足します。次年度の4月に正式に厚生教官として務めることになりました。筑波の出身者で晴眼の教官がほしかったのでしょうね。
めぐり合わせがあって、公務員になられたということですね。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
父はずいぶんと喜んでくれました。30過ぎまで親のすねをかじっていた息子が、国家公務員になったのですから、無理もありません。父が大学を出てから霞が関の官庁に入り、ずっと役人をしていたということもあるでしょう。
親孝行ができたんですね。
ゆうすけ
ゆうすけ

海外が注目する日本の視覚障害者教育

芦野先生
芦野先生
ただ、私は視覚障害者の教育に携わるなんて、夢にも思っていませんでしたから、苦労はありました。それまで理療科の教官はほとんど視覚障害者でした。はじめから晴眼者で教官として採用されたのは、私が第1号です。
慣れない環境で難しい教育に挑まれていたんですね…。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
「自分は視覚障害者に教えるのは向いていないんじゃないか」という思いはずっとありました。1年勤めたくらいで「もう辞めてウィーンに戻りたいな」と考えたことも……。
でも、あることをきっかけに、辞めたいという気持ちはなくなりました。
何があったのでしょうか。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
ちょうど教官になってから1年後、春休みに2週間の休みを取って、ドイツとオーストリアに行きました。
国立リハセンターのモデルになったハイデルベルクの総合リハセンターを見たかったのですが、もう一つ印象的な場所を見学できました。「オーストリア連邦盲教育学院」というヨーロッパでは「国立パリ盲学校」に次ぐ、ウイーンにある名門の盲学校です。
どのような収穫があったのですか。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
4階の全フロアが、世界中の盲人の資料館になっているのです。
奥まったところにあるガラスケースに、明治の初期に凸版文字で作られた『杉山流三部書』がずらっと並んでいました。他にガラスケースに入っているのは、あまりないんですよ。あちらの教頭先生が「これは本校の宝です」と…。
『杉山三部書』がどの資料より大切に保管されていたんですね。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
教頭先生が「日本でスギヤマが盲人のための鍼灸マッサージの学校を作ったのは、パリに盲学校ができる100年も前のこと。世界の障害者の職業リハビリテーションの先駆的な業績だ」と持ち上げてくれるんですよ。
「今も日本では盲人が、その伝統を継いで鍼灸を生業としていると聞いている。そういう伝統の中で盲人に鍼を教えているあなたは素晴らしい」と言われました。
なんだろう、涙が出そうになります…。
ゆうすけ
ゆうすけ
芦野先生
芦野先生
「そんなにすごいところに私はいたのか」と退職を思いとどまりました。
そのまま定年まで29年間、国立リハセンターに勤めることになります。

あはきは医業類似行為にあらず

芦野先生と言えば「あはきに関する法律の有識者」というイメージが強いです。どういうきっかけで法律に関わるようになったんですか。
ツルタ
ツルタ
芦野先生
芦野先生
私が国立リハセンターに採用された時の理療教育部長が、三平勇先生でした。
三平先生は、厚生省(現 厚生労働省)のあはき中央審議会の委員だったんです。先生は全盲だったので、私がカバン持ちで、いつも一緒に厚生省まで行き、中央審議会は隣に座って陪席をしていました。
そういった経緯があったのですね。
ツルタ
ツルタ
芦野先生
芦野先生
その時の中央審議会の会長というのが、久下勝次先生でした。久下先生は、あはき法が作られた昭和22年に医務局次長を務めています。久下先生に、あはき法についてわからないことを質問して、ずっと教えてもらっていたんです。「『あん摩・鍼灸・柔道整復等営業法の解説』に全部書いてある」とも言われました。
聞いたことのない本ですね…。
ツルタ
ツルタ
芦野先生
芦野先生
実は厚生省の図書検索をしてもないんですよ。
それで結局、国立国会図書館に行きました。昭和23年の本で古くて傷んでしまっていて、コピー禁止だというので、丸1日かかって書き写しました。
つまり、芦野先生がきっかけで『あん摩・鍼灸・柔道整復等営業法の解説』は発掘されて、再び世に出たわけですね。
ツルタ
ツルタ
芦野先生
芦野先生
久下先生からお聞きしたことと、この営業法の解説に書かれていることが、私のあはき法のすべてです。世間では「あはきは医業類似行為だ」なんていう、とんでもない嘘が流布しています。
あはき業界は、「あはきは医業類似行為である」という説を否定しなくていいんですかね…。
ツルタ
ツルタ
芦野先生
芦野先生
どうしても日本では鍼灸の価値が、軽んじられている気がしてなりません。
日本は世界に先駆けて視覚障害者の教育がおこなわれてきて、鍼灸師が伝統を引き継いでいることも、本来はもっと広く打ち出してよいことです。
もっと自信を持っていきましょう。世界に誇れる鍼灸の伝統が日本にはあるわけですから。

【あはき法特別講義編に続く】

取材協力:横浜医療専門学校

【記事担当】
取材 = ゆうすけタキザワツルタ
撮影 = ツルタ
文 =ツルタ
編集  くちやまだ

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