病人の人生じゃない。「普通」になりたかった/鍼灸師:鈴木 咲緒

病人ではなく「普通」になりたかった

お話を伺っていて、しばらく療養に専念する選択肢もあったんじゃないかなと思ったんですよね。でも、そうではなく鍼灸の学校に進まれたわけじゃないですか。その原動力みたいなものを知りたいです。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
学校というのが割と好きなタイプだったっていうのもあるんですけど、でも第一に「普通」になりたかったんですよ。
普通になりたかった…?
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
病人の人生じゃなくて、いわゆる普通の人生に戻したかったんです。よく病気ものの小説とかあるじゃないですか。当時全く読めなかったんですけど、唯一読めた作品が『フラワー・オブ・ライフ』 っていう、よしながふみさんのマンガだったんです。主人公が白血病で、治療で1年留年して学校に戻ってきたっていう設定なんですよ。物語の最後の方で、主人公は自分が再発する可能性があることを知るんですね。
それで「俺は普通になりたいんだよ」って泣きながら叫ぶシーンがあるんです。もう共感しかありませんでした。病気になった事実をリセットしたい、普通になりたいっていう想いが強かったように感じます。
だから、体調が悪くて辛い状態でも、療養の道は考えなかったわけですね。なんだか当時の切実な想いが伝わってくるようです。鍼灸学校に入ってからはいかがでしたか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
鍼灸学校に入って久々に勉強したんですけど、学ぶことがすごく面白くて。東洋医学も、生理学とか解剖学の授業も、めちゃめちゃ楽しくて充実していました。高校3年間ちゃんと学校に通えなかったからこそ、勉強できる環境ってこんなにも素晴らしいんだって実感しましたね。
その頃には、体調はかなり回復していたんでしょうか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
1年生の時は、薬を徐々に減らしていくことができたんです。とうとう薬を止められるくらいまで、体調も回復していました。夏頃から学校にもだんだん出られるようになって、やっと普通になってきたなと思った矢先、秋頃に例の頭痛が出るようになって…。その年の11月に病気が再発したことが分かったんです。

再発して、骨髄移植を受けることを決意

再発というのは、具体的にどういう状態になったんですか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
病気によって白血球の数値が減ると、半無菌みたいな部屋にいないといけないんです。当時、その部屋にいなきゃいけないぐらいの数値まで落ちてしまっていました。検査した時に「即入院です」って言われて、そのまま入院しましたね。
タイミング的にもショックだったと思います。せっかく体調が回復してきていたのに…。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
そうなんですよ。正直2回目の入院の時の方が、1回目に入院した時よりもショックでした。私やっぱり病気じゃん。普通じゃなかったんだって改めて突きつけられたようで…。
2回目の入院で、生活はどのように変わったんですか。鍼灸の学校に通うのはさすがに厳しかったですよね。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
そうですね。2回目ということで、骨髄移植をするか、もう1回ATGの治療をするかで、かなり揺れました。結構迷いましたね。
最終的には、放射線と抗がん剤は、やっぱり怖いなっていう気持ちがあったのでATGを選択したんですけど、色々な事情で治療を開始するまでにすごい時間がかかって。11月に入院したんですけど、ATGを受けたのは4月なんです。
再発から治療の開始まで、5カ月もかかったんですね。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
その5カ月間は、とにかく何もしないでただ病院にいるしかないような期間で、精神的にもきつかったです。9月に退院したので、トータルで10カ月程入院していました。
鍼灸学校の方は、1年間休学みたいな形をとられたんですか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
結果的に3年間休学しました。ATGの治療後も毎週、通院で輸血する生活が始まりました。
ATGを受けたら治療が終わりというわけではなかったんですね。それは、いわゆる成分輸血ですか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
そうです。血小板は1週間、赤血球は2週間で寿命がきてしまうので、血小板は毎週、赤血球は2週間に1回、成分輸血して補っていました。たまに白血球を増やす注射も受けていましたね。
血小板輸血はかなりアレルギー反応が出るので、実はすごく辛いんです。下手すると気道がふさがってしまうリスクもあって。私自身、息が苦しくなってナースコールをしたこともあります。それぐらい大変な治療なんですよね。
輸血って聞くと、じっとしていれば終わるようなイメージをしてしまいがちですが、全く楽な治療ではないんですね。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
ただ、ゆっくり輸血するとアレルギーが出にくいっていうのがわかったので、ほぼ1日がかりで輸血をするようになりました。週に1回、1日がかりの治療を受けるのは正直しんどかったですね。体力的にも精神的にもきつくて…。半年くらい経った頃に、こんな輸血で命をつなぎ留めるような生活はもう嫌だなと思うようになりました。
それで骨髄移植を考えるようになった…。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
実は10カ月の入院生活の間に、同じ病気の子が骨髄移植を受けてすぐに亡くなってしまったんですね。これまで骨髄移植で元気に退院する人たちを見てきたので、大きなショックを受けました。そういう出来事もあって「骨髄移植=怖い」っていうイメージが拭えなかったんです。
命に関わるようなリスクもあるんですね。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
でも、半年輸血してきて、こんな生活を続けるぐらいだったらイチかバチかやってみようって決意するくらい、正直しんどかったんです。先も見えない状況だったので…。それで骨髄移植を決意しました。

「もう元気になるしかない」。学校生活を謳歌

骨髄移植はどのように進んでいったんですか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
最終的に、医師がすすめてくれた骨髄バンクのドナーから移植を受けることが決まって、そこからはあれよあれよと移植する日が決まっていくような感じで進んでいきました。
移植の1カ月前に入院して、移植後も40日間は無菌室を出られないんです。患者の状態が良くないと移植はできないので1カ月かけて色々な検査をして、移植の数日前に抗がん剤と放射線の治療を受けます。そして移植日を迎えるという形ですね。
抗がん剤や放射線の治療はいかがでしたか。副作用の影響も大きいんじゃないでしょうか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
特に放射線治療は辛かったですね。血液の病気の場合、弱い放射線を全身に当てるような治療になるんです。治療中は何も感じないんですが、放射線照射を受けた30分後に嘔吐して、そこから1カ月程まともに食べられない状態になりました。いろんな白血病の患者さんとお話ししましたけど、誰に聞いても放射線治療が1番きつかったって言いますね。
移植を受けるまでに、その状態は回復しないですよね。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
そうですね。放射線治療の副作用を引きずったまま、移植の日を迎える感じでした。移植ってドナーさんは、腰の骨から骨髄を採取する少し大がかりな手術になるんですけど、受ける側はポタポタと点滴で受けるんです。不思議な感じですよね。一見ただの点滴なんだけど、実は骨髄を移植している。
移植中は急変しないか、時間を区切って確認する必要があるんです。骨髄を入れ終わるまでは「ほんとに大丈夫かな」ってドキドキしていました。夜勤の看護師さんに「怖いので話に付き合ってもらっていいですか?」って頼んで、移植が終わる朝の5時ぐらいまで、ずっとおしゃべりしていました。恐怖を紛らわすために……。点滴が終わった瞬間に、すぐに爆睡しましたね。
永遠に感じてしまいそうな時間…。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
そこからは副作用との戦いです。下痢が止まらなくて、40日間無菌室にいる間に8キロ痩せましたね。1日アイス1個食べたら看護師さんに「咲緒ちゃん食べられたね」って褒められるみたいな。そういう生活を送っていました。
無菌室を出た後は副作用もありましたけど、順調に回復していきました。それで12月末に退院することができたんですけど、鍼灸学校が3年までしか休学できないっていうルールがあったので、次の4月にめちゃめちゃ頑張って復学しました。
体調的には結構無茶をしたんじゃないですか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
実は骨髄移植を受ける前に、免疫抑制剤の種類を変えることができたんです。そうしたら徐々に吐き気が減っていって、たまに休むことはあったんですけど以前と比べたら圧倒的に学校に通えるようになりました。この上ないくらい嬉しかったですね。3年間のブランクはあったものの、最終的に3つ下の子たちと、まるで若返ったかのように楽しみました。
やっと学校生活が戻ってきた感じですね。3年のブランクを経て…。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
勉強できるのがとにかく嬉しくて。骨髄移植を受けてもう再発しないぞと。「もう元気になるしかないな、これは」と思って。体調にそこまで振り回されることもなくなったので、人生リスタートですよ。
勉強も楽しかったですけど普通に学校生活が楽しくて、テストが終わるたびに「飲み行くぞ」って言ってました。普通の人より休む日は多かったんですが、無事卒業することができたんです。

晴天の霹靂。積聚治療を学びたくて

卒業後にどういう風に鍼灸師をやっていくかについては、どのように考えていたんですか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
1・2年生の時は本当に私、鍼灸師になるために真面目に勉強していたんです。でも3年生になる年ぐらいに、うちの母方の実家の薬屋で仕事してくれないかっていう話があって、鍼灸の仕事ができないかもしれない状況になったんですよ。今まで勉強してきたのはなんだったっていう感じで、精神的にグレまして。だから3年生の時は、あんまり勉強に身が入らなかった部分もあったんです。
でも、ある先生に「積聚治療」について教えてもらったことがきっかけで、学ぶ姿勢が大きく変わりました。夏に開かれた講習会に参加したら、晴天の霹靂。運命を感じました。私は積聚治療を勉強しようと思ったわけです。その講習会で鍼灸師向けの集会があるのを知って、なんとかして行こうと。これに参加しておけば鍼灸師の勉強を続けられると思って、親に薬屋を手伝うから行かせてくれと取引をしました。
その積聚治療の勉強会っていうのは、どちらでおこなわれていたんですか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
当時は東京の狛江ですね。
咲緒さんのお住まいは新潟ですよね。頻度としては、月に1回とか?
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
それが毎週行っていたんです。
すごいな。親御さんもなかなかの取引をしてくれましたね。積聚治療を知って、青天の霹靂とおっしゃっていたじゃないですか。最初の印象で、どの辺に魅力を感じたんですか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
当時、鍼灸の治療の基準がわからなかったんですよ。何をもって効くかがわからなかったというか。打って、はい終わりでは治療した実感がなくて…。その点、積聚治療はきちんと基準を設けて変化をみるというか、指標をみて体の変化を患者さんと施術者で共有していくようなスタイルだっていうのを感じて。「そうすればよかったのか」って腑に落ちたんです。
在学中に勉強を始めた感じですよね。卒業後はどうやって学びを深めていったんですか。
ツルタ
ツルタ
鈴木先生
鈴木先生
卒業後は積聚治療の講習会に行きはじめました。毎週1回講習会に参加して、残りは主に薬屋の仕事をしながら、知り合いのみに鍼灸治療をおこなっていました。ちょうど3年後ぐらいに薬屋をやめることになったので、それから開業を決意して「はり·灸 香登家」をオープンしたんです。

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