2023年版 顔面神経麻痺診療ガイドラインの学び/鍼灸師・博士(心身健康科学):粕谷 大智
今回の学びは、2023年3月に発刊予定の「顔面神経麻痺の診療ガイドライン」がテーマです。
2023年版の顔面神経麻痺診療ガイドライン作成委員として鍼灸の項目を担当する、新潟医療福祉大学リハビリテーション学部鍼灸健康学科の粕谷 大智(かすや だいち)先生に執筆をお願いしました。
いただいた原稿を、ハリトヒト。編集部が対談形式に再構成しています。
診療ガイドラインとは?
エビデンス(科学的根拠)などに基づいて最適と考えられる治療法を提示する文書のことで、患者と医療者が治療法などについて意思決定する際の重要な判断材料となります。
( 厚生労働省委託事業EBM普及推進事業Mindsより)
粕谷 大智(かすや だいち)先生
【略歴】
筑波大学理療科教員養成施設 臨床研修生修了
人間総合科学大学大学院博士後期課程修了
心身健康科学博士
1987~2022年 東京大学医学部附属病院 内科物理療法学教室(物療内科)に入職、アレルギー・リウマチ内科を経て、リハビリテーション部・鍼灸部門主任
2022年~ 新潟医療福祉大学リハビリテーション学部鍼灸健康学科準備室長・教授
2022年 日本顔面神経学会認定リハビリテーション認定指導士
【現職】
新潟医療福祉大学リハビリテーション学部鍼灸健康学科・教授
【所属学会・研究】
日本顔面神経学会、日本心身健康科学会理事、全日本鍼灸学会監事、日本東洋医学会代議員、日本リウマチ学会、日本リハビリテーション医学会、日本腰痛学会
特にリウマチ、腰下肢痛に対して数多くの研究成果があり論文を発表している。
ガイドラインの作成委員に
新たに発刊される顔面神経麻痺の2023年度版診療ガイドラインで、鍼灸についての記載に大きな動きがあると聞きました。新旧のガイドラインを軸に顔面神経麻痺についていろいろと教えてください。
これまでの鍼灸臨床において、末梢性顔面神経麻痺に対する鍼灸治療は、比較的治療頻度が高く、各治療院のホームページなどにも得意疾患、症状として明記されています。
たしかに「顔面神経麻痺 鍼灸」で検索すると、さまざまな治療院のホームページが出てきて、鍼灸治療が顔面神経麻痺の回復を早めるようなことが書かれています。
しかし、これまでの顔面神経麻痺の診療ガイドラインにあたる『顔面神経麻痺診療の手引き』(2011年 金原出版)では、「鍼灸」はC2で“推奨されない”と記載され、「低周波通電」はDで“禁忌”(麻痺の後遺症を悪化させる)とされています。
つまり、医療関係者の間では「鍼灸は効果が科学的に不明だから勧められない」、「顔面の通電治療は麻痺の後遺症を悪化させる」との認識でした。
診療ガイドラインと各鍼灸院の発信には相当なギャップがありますね。顔面神経麻痺に対して、鍼灸は本当に推奨されないような治療なのでしょうか。
たしかに2011年以前は、鍼灸に関して強いエビデンスを示す論文は少なく、科学的な根拠は不明だから推奨しないといった認識は妥当であったと思います。
しかし、私は長い間、東大病院での臨床で顔面神経麻痺の治療に携わり、鍼灸の効果を実感してきました。
これまで25年間、日本顔面神経学会に所属し学術大会にも参加しながら、この専門学会で鍼灸の効果について発表してきたのは、専門医や関係者に鍼灸の役割を提示していくことの必要性を強く感じてのことです。
インタビュー『
抱え込まない。だけども見捨てない』でも、長いスパンで信頼関係を築くよう努力をしてきたとおっしゃっていましたね。
日本顔面神経麻痺学会での発表など、これまでの活動の成果でしょうか。今回、粕谷先生がガイドラインのリニューアルに関わっていると聞きました。
2011年の発刊からすでに10年以上経過し、麻痺の治療に関する多くのエビデンスが出されてきました。ここで新たに検討すべきとの意見も多く、2023年版が発刊されることになりました。そして、2023年度版の診療ガイドライン作成委員に選ばれて、私は「鍼灸」のクリニカルクエスチョン(Clinical Question; CQ)を担当することになりました。
ここでは、現在の顔面神経麻痺に対する鍼灸の現状と課題と、この3月に発刊予定の顔面神経麻痺診療ガイドライン2023年版の作成過程からみた鍼灸の立ち位置についてお話ししたいと思います。
※CQ(クリニカルクエスチョン)とは
重要臨床課題に基づいて診療ガイドラインで答えるべき疑問の構成要素を抽出し、ひとつの疑問文で表現したもの。
顔面神経麻痺に対する鍼灸の現状と課題
末梢性顔面神経麻痺に対する鍼治療の報告は多いものの、麻痺の予後の見方、評価法、治療上の注意、鍼治療については、鍼灸師間で共通理解が乏しいのが現状です。
開業していると、自院だけである程度は完結できることの弊害かもしれませんね。各院がそれぞれに取り組んでいる。
そうですね。だから医療機関との連携も少なく、医療者に「鍼灸治療が麻痺の何に対して効果を出しているのか?」が理解されていないのが現状です。診療は、表情筋や顔面神経の特徴、麻痺の重症度の評価、麻痺患者の苦痛などを理解した上でセルフケアの指導も含めて鍼灸治療をおこなう必要があります。
鍼灸師間の共通理解として深めていきたいテーマですね。先生は鍼灸治療で顔面神経麻痺に対して、どのように取り組んでいくのが良いとお考えですか。
末梢性顔面神経麻痺の6割から7割は予後良好です。治療の介入がなくても良くなります。問題はあとの3割から4割の予後不良をどう見極め、後遺症を残さないようにするかです。
すなわち現在の麻痺の治療は、予後不良例に対して麻痺の回復過程で後遺症をいかに予防、軽症にさせるかが重要となります。
予後の見極め方やその評価法、後遺症そのものを学ぶ必要がありますね。
その通りです。やはり鍼灸師もほかのコメディカルスタッフと同様に、診療ガイドラインを理解し治療やセルフケアの指導等をおこない、専門医との連携が図れることが大事だと考えます。
医療連携を進めていく上で、共通言語を持つことがとても重要ですね。ところで、セルフケアの指導はどのように学べば良いでしょうか。
日本顔面神経学会は学会開催中に、コメディカルを対象にしたリハビリ技術講習会を開催しています。これは、診療の専門性を向上させ、麻痺患者さんに良質な医療と医療機関の選択等に関する情報を提供することが目的で、講習会後に筆記試験をおこない合格すると証明書がいただけます。
そして合格者を対象に一定の条件を満たす者が学会認定の顔面神経麻痺相談医、顔面神経麻痺リハビリテーション指導士として診療が可能となります。
素晴らしい取り組みですね。ただ僕は、そのような講習会や認定制度があることを知らなかったです。
実は2022年からスタートしたまだ新しい制度です。それでも多くの鍼灸師の先生方が講習会に参加し合格証をいただいています。
また私は鍼灸師として初めての顔面神経麻痺リハビリテーション指導士となりました。まだコメディカルでは理学療法士3人、言語聴覚士1人、鍼灸師1人の計5名しかいません。すでに私のところには、学会経由で数名の麻痺患者さんからの問合せが来ました。
学会によって信頼性が担保された鍼灸師というのは医療機関も紹介しやすいはずですね。それにセルフケアの指導を、鍼灸師の役割の1つとして示しているのは、医療連携という観点でとても大きいと思いました。
この認定指導士の条件として「理学療法士(PT)・作業療法士(OT)・言語聴覚士(ST)・はり師・きゅう師、看護師いずれかの資格を有する」なので、鍼灸師もちゃんと入っています。
この手の資格条件って、鍼灸師は除外されていることが多いだけに嬉しいです。日本顔面神経学会認定の顔面神経麻痺リハビリテーション指導士を目指すのは、鍼灸師のキャリアパスの1つになりそうですね。
患者さんへの生活上の注意点やリハビリ、セルフケアの指導は麻痺の予後を決める大切なツールです。鍼灸師も鍼灸施術だけでなく、その最前線の知識を学ぶことはとても大事なことだと思います。
毎年学会開催中に技術講習会はおこなわれますので、興味のある方はぜひ参加してください。認定指導士にならなくても技術講習会の参加は大変勉強になりますよ。
2023年版 診療ガイドライン
2011年版の『顔面神経麻痺診療の手引き』では、鍼灸はC2(推奨を勧めない・効果が不明)でした。
しかし、すでに10年以上が経過し、昨今のシステマティックレビュー(SR)の評価も傾向が変わりつつある中でガイドラインの改定が始まりました。
2023年版の診療ガイドラインでは、鍼灸のCQは「鍼灸は麻痺の早期回復に効果はあるのか?」、「鍼灸は後遺症の症状を軽減させる効果があるのか?」の2つになり、ベネフィットとリスクについてのコメントになります。
鍼灸のCQの設定に粕谷先生が携わっているとのことですが、ガイドラインはどのように作成するのでしょうか。
通常は、統括委員会、診療ガイドライン作成グループ、SR(システマティックレビュー)チーム、外部評価の4本柱で推奨の程度を委員の投票により決定していきます。SRチームが集めて統合したエビデンスの結果を元に、ガイドライン作成委員が結果の解釈や諸々の検討を重ね推奨作成をおこない、投票や外部評価を通して最終決定されるという流れになります。
さまざまな人が関わり、多くのプロセスを経て作成されるのですね。それだけ良質で信頼できるものなのだと思います。
このガイドラインとは、医療者にとって、どのような存在と考えたら良いですか。
あくまでもガイドラインは診療の参考です。それでも医師や医療従事者はガイドラインを参考に患者さんへの説明をおこない、ガイドラインで推奨されている治療を優先的におこないます。
そのガイドライン作成委員会に鍼灸師が委員として入ったというのは、とてつもなくすごいことだと思うのですが……。
ありがとうございます。
それから鍼灸のCQに鍼灸師が推奨と解説の作成に携わることはとても重要です。
なぜ重要かというと、SRチームが提示したエビデンスの結果は変えられません。しかし、どう解釈し解説するかは、鍼灸を知らない者と知っている者で表現が大きく異なります。
例えば、麻痺に対して鍼灸は“弱く推奨される”という結論の場合、解説として「治療は西洋医学的な標準治療をおこなった上で併用することが望ましい。」というコメントは、実際の鍼灸臨床の現場を知らない方の解釈です。
しかし、鍼灸を理解している者は「本邦では標準治療をおこなった上で鍼灸を施す場合が大半であり、その際に鍼灸師は日常生活の注意点やリハビリなどのセルフケアも指導しており麻痺の回復に貢献している」との解説になります。
同じ“弱く推奨する”内容でも、実際の現場を知っている鍼灸師の先生が作成委員だと印象が全く異なるのですね。その他のガイドライン作成では、どれくらい鍼灸師は関わっているのでしょうか。
現在、各疾患のガイドライン作成委員に鍼灸師が委員として関わっていることは極めて少ないので、医療者に鍼灸のエビデンスの結果やその解釈について鍼灸師の立場から伝えるのが難しいのが現状です。
それで、顔面神経麻痺の2023年度版診療ガイドラインでは、CQの「鍼灸は回復を早めるか?」、「後遺症を軽減できるか?」は両方とも“弱く推奨する”と大きく変わる予定です。
今までが“推奨しない”ですから、これは大きな前進だと思います。
ここにコクランレポートの図を示します。上段の麻痺の回復や下段の後遺症の軽減に従来の治療(コントロール)と比べ、鍼治療の介入はより効果を出していることが分かります。特に後遺症を予防・軽減することでQOLの向上を図ることが麻痺治療の目標なので、鍼治療がQOL向上に寄与していることが示唆されます。
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