今のテーマは「自分の魂の叫びを聞く」なんですよ/鍼灸師:大饗 将司

”Don’t think too much. Feel.”
大饗 将司(おおあい まさし)先生が企画した、頭痛をテーマとした講習会で、もっとも印象に残っている言葉です。

「どれだけ考えても、感じないと意味がない。」
そんなメッセージでしょうか。

“Don’t think. Feel.”
有名な俳優で武術家だったブルース・リーが同様の言葉を遺しています。
空手を長年続けているぼくは、この言葉をきっかけに大饗先生に俄然興味を持ちました。

東京・自由が丘で開業しながら、養成学校で講師として勤務し、その傍ら、実技重視のセミナーを主催。
多方面でご活躍されている大饗先生に、お話を伺ってきました。

大饗 将司(おおあい まさし)先生

2000〜2005年 香川県丸亀市、大阪府大阪市にて、鍼灸・接骨院 勤務
2005〜2009年 大阪府大阪市にて、鍼灸・接骨院 院長
2008〜2009年 手技療法セミナー 講師
2008~2013年 プロ野球選手・メジャーリーガーのパーソナルトレーナー
2014年 「acu.place自由が丘治療院」開業
2016年〜 鍼灸師 マッサージ師 学生向け技術セミナー開催
2017年〜 鍼灸マッサージ師養成学校・鍼灸マッサージ教員養成学校 講師

鍼灸の職業的な側面が、当時のぼくにはすごく魅力やったんです。

大饗先生は、四国のご出身なんですね。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
香川県丸亀市の出身です。
香川県には何度か友だちを訪ねて行ったことがあります。
丸亀市に本店がある「一鶴」の料理がおいしかったのが印象的で…骨付鳥の(笑)。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
よう知ってますね(笑)。
あまりにおいしかったもんで…(照)。
香川県ご出身ということは、卒業されたのは四国医療専門学校ですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
そうそう。四国で唯一、あはきと柔道整復師、理学療法士、作業療法士、看護師のコースがある学校なんですよ。
香川から大阪、東京、メジャーリーグ。
そして、帰国後は再び大阪へ戻り、現在は東京でご活躍されているということで、その経緯が、すごく気になります。
まずは、鍼灸との出会いをお聞かせください。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
高校のときに、スポーツで肩を痛めたんですよね。
その治療のために鍼灸院へ通うようになったのがきっかけです。
競技は何をされていたんですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
小学・中学・高校とバドミントン部でした。高校時代はキャプテンをつとめるほど打ち込んでいて。
でも、2年生の夏から、半年ぐらい肩が上がらなくなってしまったんです。
熱中していた部活でケガ…。ショックですよね。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
「学校にも行きたくない!」と追い込まれて…。
でも、そんな自分を救ってくれたのが鍼灸でした。
四国医療専門学校に進学したってことは、そのケガが進路に影響したんですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
そうですね。もともとバドミントンで大学進学を考えていたんですが、腰痛もあり、そちらは断念しました。
同級生に優秀な人が多くてね。みんながいい大学に進学が決まるのが悔しくて。
「こいつらには負けたくないな」と思っていました。
スポーツの世界で仕事をしたいとは思っていたので、どうにか自分を活かせる場所がないかと考えたときに、鍼灸やったらいけるかなぁと。
ケガをして治療のために鍼灸を選んだというのは、何かご縁があったんですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
母親が毎日、鍼灸院に連れていってくれたんですよ。
鍼灸という職業と先生を結びつけたのは、お母さんだったんですね。
すてきなお話だなぁ…。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
あ、でも「鍼灸でケガが良くなったことに感動して、鍼灸師を目指した」という純粋な美談ではないんですよ(笑)。
もっと現実的なところに目が向いていました。
というのは…?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
治療費がね、その院だと1回3,000円。
1日10人で…と計算して、「鍼灸師って稼げるちゃうか?」と高校生のぼくは考えていたんです(笑)。
(笑)。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
とはいえ、鍼灸に助けられたのは事実ですよ!
ただ、鍼灸の伝統的な奥の深い側面より、「スポーツに関わりながら、お金も稼げる」という職業的な側面が、当時のぼくにはすごく魅力やったんです。
いやいや…、それがリアルですよ。お気持ちはすごくわかる。
インタビューで、そのあたりの本音をお話してくださるのはありがたいです(笑)。
シンタロー
シンタロー

就職して1日半でクビになりました(笑)。

専門学校時代はどのように過ごされていたんですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
学生のときは、経絡治療をはじめ、いろいろな治療法を学びました。
けど、腑に落ちなかったんですよ。自分にとって、パッとするものがなかったんです。
鍼灸の治療法って、さまざまですからね。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
でも、ある時、関西医療大学の黒岩 共一(くろいわ きょういち)先生に出会い、トリガーポイント療法を学びたいと思ったんです。
めっちゃ感動して、まだ学生やったんですけど、黒岩先生に手紙を送りました。
手紙を書いてまで勉強したいとアピールするヤツなんか、なかなかおらんでしょ(笑)。
「これがぼくのもんになったら、すごいぞ」と思って。
その手紙をきっかけに、先生からセミナーのお誘いがあって、それから10年間、ずっと学んできました。
香川から大阪にがんばって通っていたんですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
セミナーに通うには、お金がかかる。香川から大阪に通うのも正直遠かったです。
けど、がんばった感じではなかったですね。
金銭的にも、距離的にもハードだけど、それがストレスに感じなかったんですね。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
自然な欲求やったんやと思います。
もっと知りたい、うまくなりたい、できるようになりたいっていう。
変に「遠いけど行かなきゃ!」とは思ってなくて。
突き動かされていた?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
そうですね。あと、人ですよね。黒岩先生の人柄に惹かれたんです。
人柄に惹かれる部分はすごく大きかった。
しょうもないギャグを言ったりするんですけど、そういうのを含めて、黒岩先生のことが人として好きなんです。
何を教わるか、より、どんな人に教わるかが大切だって言いますもんね。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
「ほかの人と違うことがしたかった」というのもありますね(笑)。
みんなと同じ道を歩みたくなかった。
当時はトリガーポイント療法は、まだ有名ではなかったから。
ちなみに学生時代って何年前くらいのお話ですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
入学したのが1996年やから、23年前ですね。
一般の高校から、鍼灸学校を受験する人がほとんどおらんような時代でね。
鍼灸学校自体が10数校しかないから、競争倍率は10倍以上。
そんな中で、入学試験を合格する人たちはめっちゃ頭がいいんですよ。
ぼくは勉強ができへんかったんで、四国医療専門学校に入るときに、一浪して入学してるんです。
一浪ですか。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
今よりもだいぶ厳しい環境ですよ。鍼灸学校に合格するための予備校にも通わないといけない時代。
それにカイロプラクティックの学校にも通っていました。
ぼくは2011年の入学なのですが、入学試験のために予備校に通うっていう考え方はなかったですね。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
厳しい時代でもぼくの成績が良ければ、合格していたんでしょうけどね(笑)。
予備校とカイロのダブルスクールもハードそう…。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
それでもね、なんとか合格して、入学できました。
免許を取ってからは、学生時代からバイトをさせていただいていた地元丸亀市の鍼灸接骨院で働きながら、マッサージ屋も掛け持ちして、お金を貯めて。
で、半年後にワーキングホリデーで海外に行ったんですよ。カナダへ。
カナダ!? 何かを学びに行ったんですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
いえ、人と違うことがしたかった。それだけです。
っていうか、スノーボードがしたかった(笑)。
そのころ、バックカントリーっていうのが流行っていて。
「ほな行ったろうやないか」って、男3人で行ったんですよ。
それだけの理由なんですか(笑)。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
そうです(笑)。
半年カナダに行って、帰ってきて、また同じ鍼灸接骨院で働きながら、今度は夜間の柔道整復科に入学しました。
柔道整復科のときはめっちゃ遊んでたなぁ。
ちなみに専門学校の学生をしながらめっちゃ遊ぶって、どんな感じですか?
すみません、想像できなくて(汗)。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
すでに鍼灸マッサージで往診を始めていて、めっちゃ稼いでたんですよ。
そもそも、なんで柔整科に入学したかというと、当時勤めていた鍼灸接骨院の院長から、あとを継げって言われたからで。
それもありかなぁ、と思って。保険療養費かぁ、儲かるなぁって(笑)。
ぼくの大饗先生のイメージって、「講習会の講師として真面目なことを話している先生」だから、ギャップがすごい…。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
そうですか(笑)?
実は鍼灸学生のときから、ずっとDJの活動もしていたんですよ。
DJ!
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
モテたかったんすよ(笑)。
そこですか(笑)。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
結局、全然モテへんかったけどね(笑)。
当時のDJといえば、ヒップホップが主流やったんですが、仲間内はロックやパンクが多くて。
ぼくの周りは変わっている人がほとんどで、先輩もめっちゃ悪い人ばっかりでね。
泥酔なんて日常茶飯事でした(笑)。
やんちゃな学生時代ですね(笑)。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
でも、いっしょに遊んでいた仲間や先輩のつながりが、今から考えると強力やったんですよ。
そのおかげで苦労せずに売り上げが伸びて、仕事は順調でした。
信頼関係がすでにありますもんね。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
当時は人とのつながりがあるのが当たり前みたいな感覚で…、でも、そのありがたみに気付いてなかったんですよね。
東京で開業したときは、まったく患者さんが来なくて苦労しました。
香川時代が恵まれていたことを知りました。
地元で開業する強みはありますよね。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
若かったこともあって、気付くのが遅くかったですね。
今は、人とのつながりがとても大切やと思っています。
柔道整復師の資格を取得して、すぐに鍼灸接骨院を継いだんですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
いや、また、海外に行きました(笑)。
半年間お金を貯めて、今度はロンドンに留学し、ヨーロッパを回りました。
でも、最初の入国審査で5時間くらい足止めをくらって(笑)。
そんなに止められるものなんですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
怪しかったみたいですね。まぁ、ヒゲはボーボーやったし、仕方ないっちゃ、仕方ないんやけど(笑)。
怪しまれる風貌とは…。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
別の国でも、入国審査で合計3回も引っかかったりして、社会の厳しさを知りました(笑)。
ただ、そんな感じでも、行った意味があればよかったんですけど…。
結果的に、帰ってからの感想が「楽しかったけど、ようわからんかったな」やったんです。
「とりあえずヨーロッパに行っただけ」とか「世の中はこんなもんなんか」とか…。
ちょっと荒んじゃってるじゃないですか。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
振り返ってみると、たいしたことじゃないんですけど。
当時は「なんやこの腐った奴らは!」とか「世の中は不条理や!」とか言いながら、怒りまくっていました。
何に怒ってたんですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
うーん…。うまくいかないことを、環境のせいにして苛立ってたんやろうね。
そしてふと、「このままじゃまずいな」と思って、就職先を大阪で探したんです。
「何か変わらなきゃいけない」と思ったんですね。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
そう。あと、黒岩先生の近くで学びたくて。
でも、黒岩先生は大学の先生なので、治療院で一緒に働くというのは難しくて。
「まずは大阪で働く」という目標を持って、大阪市内で分院展開している鍼灸接骨院に就職しました。
トリガーポイント療法を取り入れている治療院やったんです。
順調じゃないですか。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
でしょ? 気持ちを新たに挑戦したんですよ。でもね…
はい?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
「お前がおると、治療院の雰囲気が変わるから辞めてくれ」って言われて、1日半でクビになりました(笑)。
1日半でクビ…!
雇われている側がすぐに辞めてしまう、というのは聞きますが、クビになるっていうのは…。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
あんまり聞かないでしょ?
ぼくの最大のネタです(笑)。
このときは自分の個性や、培った技術にすごく自信を持っていたので、バッキバキに心を折られましたね。
当時26歳くらいかな。
いやぁ…それは折られますよ…。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
彼女に振られることよりもつらかったですね。
「ぼく、もうアカンのちゃうかな」と思いました。
同じ状況だったら、ぼくは自分を保てないと思います。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
でね、まぁ、そこをクビにはなったんですけど、実はすぐに就職先が見つかったんですよ。
だから前の職場に対しては「こんにゃろ~」と思って、凹まずにスルーしようとしたんですけど。
強いですね(笑)。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
そしたら、追い打ちをかけるように、次も失敗したんです。
…!
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
次の就職先では、院長として、新しい治療院の立ち上げに関わったんです。
これがまったくうまくいかず、しかも、付き合っていた彼女とも別れ…。
さっき、振られるよりもつらいって言いましたけど、実際は別れるのもつらい…。
おおぅ…(汗)。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
そのくらいから、「ぼく、なんか、やばいぞ」って思うようになって。
うんうん。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
それからね、「ものごとをちゃんと考える時間」が多くなりました。
接骨院がうまくいかなかったときにね、社長に偉そうな口を叩いて、辞めたんですよ。
でも、その後いろいろあって、世の中はそんなに甘くないんやって知って。
「自分はすべて正しい」みたいな態度を取ってきたけど、そうじゃなかった。
順風満帆だった香川時代から一転、ヨーロッパ、大阪では苦難の連続ですもんね…。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
当時は、全部人のせいにしてたんですよ。
うまくいかないことは、全部、人のせいやと思ってました。
どうやって自信を取り戻したんですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
ほんまにどうしようかな…、と悩んでいたときに、知り合いの接骨院で1ヶ月くらいお手伝いをさせていただいて。
それが、自信を取り戻すきっかけになりました。
大阪で再度、挑戦したんですか?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
「このままでは香川には帰れん。まだ大阪で踏ん張らなアカン」と思ったのもありますね。
一念発起して、大きな会社に就職しました。
でも…
また何か…?
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
配属されたのが、正直あんまり環境がよくない鍼灸接骨院だったんです。
スタッフの出来がね…(汗)。
資格も持ってないのに、上から目線でぼくに話すスタッフ…。
3日目に辞めたいな、って思いました(笑)。
3日目(笑)。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
でも、ふと、みんなの話を聞いてみようって思いたったんです。
なんでこんなことになってしまったんか、話し合ってみようと。
スタッフとコミュニケーションを取るようにしたんですね。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
そうです。そしたら、ぼくが入社したときは1日30人しか来院がなかったのに、平均100人になって。
ちょっとおかしい伸び率ですね(笑)。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
「できることからやろう。スタッフが気持ちよく働けないと、いかん」って。
スタッフと同じ目線でやったら、だんだん良くなったんですよ。
最終的に、そのときのスタッフは最高の仲間になりましたね。
困難を乗り越えて、できた絆って強いですよね。
シンタロー
シンタロー
大饗先生
大饗先生
でもね、そのあと会社の関係でトラブルがあって、次は精神的に苦しくなったんですよ。
ぼくにはどうしようもなくて…。
仕事のことやったから、誰かに相談しづらくて。
せっかくうまくいきかけていたのに、それは過酷ですね…。
シンタロー
シンタロー

NEXT: 緊張しましたけど、自信はありました。

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